「金をドブに捨てる」という言葉があるが、これとほぼ同じ意味になるのが「私にピアノを習わせる」だ。通算何年習い、親はいくら払ったのだろう?もうわからない。
ピアノを長く習っていて、私ほど弾けない人もいないんじゃないかと思う。
今は自分が子の親になり、子供のやりたいこと、好きなこと、できたほうがいいこと、させてやれることを考える中で、私とピアノの思い出を書きたくなった。
可愛い友達が習っていたから
保育所に通っていた頃、とても可愛らしい同級生がいた。私は幼心に、彼女に憧れのような感情をもっていた。その友達がピアノ教室に通っていることを知った私は、自分もやりたい!と親に言い、「可愛いお友達と同じお稽古がしたい」というだけの理由でピアノを習うことになった。
ピアノ教室は自宅から近く、今実家があるところからすれば1分くらいの場所にあった。最初の先生となった田中先生は、とても優しい先生だった。顔も覚えてないけど。幼児用の教本を使った週に一度のレッスン。特に怒られたりしたこともない。それなりに楽しく通っていたつもりだ…
が、すでにピアノが面倒だったのか、記憶にあるが「ピアノ教室に着いてからバレバレの寝たふり」をしてレッスンを受けなかったことがある。母に立たされても寝たふりを続けた。絶対バレてたと思う。
田中先生にどのくらい習ったかは忘れたが、ご家族の介護か何かで教室を辞めるということで、田中先生には短い間しか習わなかった。先生がここで変わったのだが、そのへんの記憶は曖昧。
父のブチギレでピアノを辞める
小学校入学前くらいだった。大事件でしかないが後から考えればピアノを辞める大チャンスともいえる、忘れられないことが起きた。
父は若いころ、毎晩サウナのある銭湯行っていた。家族で行ったこともしょっちゅうあるが、たまたまそのときは父と私で行った。昔から長時間入浴するとすぐに気分が悪くなる私は、自分用のおふろセットを洗い場に置いて、一旦脱衣所でロッカーの鍵を開け、バスタオルを巻いて休憩していた。
そこへブチギレの父登場。
え?とか言う間も思う間もなく飛んでくる父のゴツい手。わけもわからないまま、サウナの前にある水風呂のところに何度も叩きつけられた。私は本気で、父が何をそんなに怒っているのかわからなかった。というかあの光景、今の時代なら誰かが警察に通報すると思う。
父は昔ながらの職人気質。家族に弱音など吐かず、相談もせず、仕事の話は妻子にしない。足腰の動く男は働いて当然という考えの父、今は83歳になったが、生涯現役…のつもりのようだ。
母も私も、父がキレると昔はオロオロしていたが、今では「あー…仕事で何か腹の立つことでもあったんやな」くらいで刺激しない。別件でキレられると本気で腹立たしいが、まあ、なかなかに盛大にキレることがたまにあった。
銭湯で休憩してたときは、
「自分の風呂用具もほったらかして出るようなモンが何がピアノじゃ!明日すぐ辞めてこい!」
高校入試の思い出にも書いたが、母はこれに「はい」と従って本当にピアノを辞めさせた。「忘れ物なんてしてない…休憩してただけで戻ろうと思っていた。パパだって今日初めて私が休憩してるのを見たわけじゃないはずなのに…」そんなのは絶対に通用しない。言えば火に油をそそぐだけだ。
全部本当なんだけど、キレた父と絶対服従の母に理解されることはなかっただろう。
父の機嫌もなおった頃、私はまたピアノを習うことになるのだが、あそこで辞めたままにしておけばよかった…とずーっと思い続けることになるのだった。
曜日、場所、相性、全部最悪
小学校に入り、またピアノを習うことになった私。確かレッスンの曜日は木曜日だった。木曜日だけ、Y先生という音大出の先生が担当していた。習い始めた頃の教室は立ち退きの場所になり、何と新しい教室は自分の家の真下だった。
同じ学校、同じクラスの友達も多く通っていて、木曜日以外の子はT先生に教えてもらっていた。木曜日じゃなかったら、あんなにピアノ嫌いにならなかったかもしれない。
Y先生は完璧主義で厳しい先生。考えたら今の私より若かった。1年生のときはピアノを習い、定番の赤バイエル(バイエル上巻)などを使って習っていた。
ミスタッチを一回でもしようものなら、絶対にマルをくれず、先へ進まない。同じところで間違えると特大の溜息をつかれ、
「はぁ…もういっぺん」
…レッスンは30分なのだが、息が詰まり、永遠のように長かった。
8歳の誕生日に伯母が電子ピアノを買ってくれるまで、うちにはキーボードしかなかった。そして、私は全く練習をせず、全く上達しなかった。
2年生になった頃、Y先生から母に「エレクトーンにしてみてはどうか」という提案があった。理由は何か忘れた。相手が何かの先生(教師、医師、その他色々)というだけでド緊張する母は、特に考えるでもなくこれを承諾。私はエレクトーンを習うことになった。
エレクトーンの椅子は高く、身長の小さな私は立って弾かされた。右手、左手、足まで使うエレクトーン。今では上手な人の演奏動画をYouTubeで見るくらい好きな楽器だが、ピアノのときよりも地獄度が増した。
無言と手汗と謎の歌
家にエレクトーンもないのに何でだろう?と思ったが、うちにあったのがキーボードだったからかな。2年生の誕生日にピアノを買っても、じゃあピアノに戻りましょうという提案はなかった。
レッスンの前に教室の水道で手を洗うのだが、特大の溜息と『ハァー、もういっぺん』のプレッシャーで、幼い私は手汗をかいた。鍵盤の上で手汗をかくと、ホコリでも吸着するのか黒っぽい水分が出てくる。
Y先生はキレて、『汚い!早く手を洗ってきて!』と怒る。手汗かかせたの誰だよと今なら思うが、エレクトーンを弾いている間、私はほぼ息を止めていた。声ひとつも発さず、ただレッスンが終わるのを待っていた。
レッスンの終わりに、Y先生がエレクトーンを弾き、歌を歌わせられた。息を止めて黙っていたら、普通に喋ろうとしても声カッスカスだ。それなのに、歌え???
先生の素晴らしい伴奏で『おおシャンゼリゼ』を歌ったときは、私としては頑張って歌ったし、歌うのは別に苦手でもなかったのだが、いやこんな重苦しい空気でずっと黙っててどんなテンションで歌うねん?てなった。
突然止まるY先生の伴奏。
『あのね、この歌は世界的に有名で、楽しくシャンゼリゼ通りを歩いてる歌なのね。私ちゃんの歌い方、どこが楽しいの?じゃあ動きもつけて歌ってみて』
ハァ?
いつも何か素敵なことがどころかいつも何か嫌なことしか起こらないこの30分間を耐え忍んでいた私、そして当然パリのシャンゼリゼ通りを見たこともない子供に、この先生何の要求してんねん?
どんどん先生もエレクトーンも嫌いになっていった。他にも、生徒だけで行く夏合宿のようなものがあって、いちばん小さい2年生で参加した私。お小遣いを持って行くことができたのだが、心配性の母が私のお小遣いを財布ごとY先生に預けた。プールに行ったとき、自分が持ってきたお金だからと「先生、かき氷を買いたいから…」と言うと、
『さっき、たこ焼き食べたでしょう?またお金使うの?』
タコ焼きはそんなに好きでもないけど皆が食べたから付き合いで食べただけだった。暑いのに私だけかき氷を食べられず、年上の子やT先生の生徒達が食べているブルーハワイのかき氷が羨ましかった。先生に小遣いを預けた母を恨んだ。母も「使い道まで先生が決めると思わんかったわ…」と言っていたが(笑)
ピアノに戻るも、嫌さ倍増
3年生までエレクトーンを習い、何がきっかけかこれまた忘れたが、ピアノに戻すことになった。Y先生は『前に使っていたバイエルを来週持ってきて』と言った。
(昔はカバーがかかってたような?)
2年も前に使わなくなった赤バイエル、どこへやったのかわからなくなっていた。次のレッスンまでに持っていかないとまたキレられると思った私は、当時母や伯母と毎週のように買い物に出かけていた先にあった楽器店で赤バイエルを買ってもらった。
そしてそれを持って翌週のレッスンに行った。
『はぁぁ……私ちゃん。先生、バイエルを買ってきてって言った?言ってないよね?前使ってたのを持ってきてって言ったんやけど。なかったら、買ってきなさいなんて言ってない。それに、多分もうないと思ってたから、先生バイエル買ってきてたんやけど』
ハァ?
その日、先生は母宛にと私に手紙を持たせた。私も読んでみたが、それなら最初からそう言えよとしか思えない内容だった。一部覚えているが、
『私としては、◯◯ちゃんに自分の力で探してほしいと思ったので、前に使っていたバイエルを持ってくるようにと言いました。見つからなければ、それを自分で私に伝えてほしいと云々』
知らんがな。
確かに、教本や出席ノート(ぴあののーと、だった)、月謝袋は先生が用意してきて、保護者が代金を支払うようになっていた。でも、自分達で勝手に用意するなと言われていたわけでもなく、赤バイエルも以前と全く同じものを用意していった。母も『探したけどなかったでーす』のほうがダメだと思って、楽器店で買ってまさか怒られて手紙にまでごちゃごちゃ書かれるのは想定外だったらしく、困惑していた。全然違う教本を買ったわけでもないし、『次回持ってこい』と言われたものが手元になく、それと同じものが用意できるなら、買うよね…?みたいな反応だった。
(これ使ってた!今もあるのね!)
先生が買ってきたバイエルはミッキーマウスの可愛い表紙で、同じシリーズの『レパートリー』という練習曲集は、バイエルの副教本として使うことになって先生にお金を渡したと思う。
いやマジでそれにしてもさ、ないと思ってたから買ってたのにって言われても…
なんとなく検索してみたら今でもあった。バイエルって書いてあるし、②って何だろう?下巻?私の記憶ではこの画像のような青い表紙だったし、ミッキーバイエルは先生が別の子にでも使うと言ったけど、『レパートリー』は練習曲が色々入った副教本みたいな感じだった。変わったのかな?
もうこの時点でピアノもY先生も大嫌いになっていた私は、伯母が買ってくれて今でも実家にある電子ピアノで練習することなどなくなった。私がピアノを弾くのは、週に1回30分、五週目がある日はレッスンが休みになるため、月にして2時間、そのうち先生に怒られたり歌わせられたりしたのを抜けば、1時間くらいだった。
それで上達したら凄いわ。
同じミッキーマウスシリーズに、ワークブックみたいなのがあって、それは音符や休符を書き込んだり、演奏記号を学ぶものだった。ト音記号を書くのがヘタ過ぎるとブチギレられたくらいしか記憶にない。
母が「気を遣うから」…
私はもう何度も何度も「ピアノをやめたい」と母に訴えた。同級生達はとっくの昔にバイエルなど終えていて、夏合宿の発表会では下の学年の子から引くのだが、私は何歳も年下の子よりもド下手だったし、ピアノを続けるなら曜日を変えてほしいと懇願した。曜日を変えれば、T先生の生徒になれるからだった。
今は私も娘をもつ母になったが、長女や次女が当時の私くらい本気で嫌がっていたら、辞めさせるか曜日(講師)を変えるか、教室ごと変える。
その前に自宅での練習だってさせるし、先生との相性も考える。何かあれば先生と話だってする。あ、娘達はピアノを習っていない。習い事はゆるく通っているスイミングスクールだけ。まあ、ピアノと違って自宅で練習ができないスイミングであっても、あの頃の私ほどの『辞めたい…』の懇願を我が子がしてきたら、とりあえず休会なり何なり、子供ともスクールとも話をして対応する。
ところが、うちの母は…
『勝手に辞めたらパパ怒るやろうし、家の下やから曜日変えたらY先生が嫌で変えてるの丸わかりやんか、そんなんママ気ィ遣うしよう言わんわ』
いやいやいやいや、
ワテほんまによう言わんわ
は、笠置シヅ子より私のセリフだ。私は当時他の習い事もしていたし、Y先生が真上のうちに来ることも、私が不在か家にいるか知ることもない。『木曜日は都合が悪くなったので、別の曜日にします』の何がダメなのか本気でわからない。
自分が気を遣うのが嫌、旦那(父)を怒らせるのが嫌だからと、娘の懇願を却下した母。
そして金ドブに気づけよ…
保育園からピアノを習っている自分の娘が、後から習い始めた子が難しい曲(子犬のワルツとかエリーゼのためにとか)を弾いてるのに、ソプラノリコーダーでも吹けるようなクッソ簡単なエーデルワイスを発表会で弾いてて、何とも思わなかったのか?
「この子には向いてないな」と普通の親なら思うだろうし、誰にでも何にでも向き不向きもあるけど、まず自宅練習をさせようよ。自分は何もせず、相性最悪の先生に丸投げって何ィ?ヘタでも我が子が好きでやってるならまだしも、泣くほど嫌がってたのに。
同じ曜日に習っていた同級生に『私がピアノをやめたがってると先生に話してほしい』とか頼んだことまであったわ。ちなみにその子は小学校の合唱で伴奏をつとめるほど上手だった(笑)
これまた何のきっかけか、やっとのことで金曜日に変わったときには、5年生の後半になっていた。
T先生とY先生、天地の差
保育園児からピアノを始めて、間にエレクトーンをやっていた期間があったとはいえ、5年生でまだ黄色バイエル(下巻)を終えていなかった私。T先生になった途端、あっという間に進んだ。
1回のミスタッチも許さないY先生とは違い、T先生はよほどボロボロに間違えない限り、普通にハイ次と進めていく先生だった。元々夏合宿でお互いに知っていたし、私のピアノがド下手なことくらいT先生はわかっていた。
適当な感じで黄色バイエルを終えたと書くと、Y先生のほうがちゃんとした先生なんじゃないの?と思うかもしれないが、T先生はいつもお手本として弾いてみせてくれた。私が何度も間違えるところを『先生がそこ弾いてみるわな』と耳で聞かせてくれた。
それから、なぜY先生が教えなかったのか知らないが、右手でドレミファソラシドと弾くときに親指でドから弾き始めて、中指でミを弾いたらその中指をくぐらせるようにしてファを親指で弾く、基本中の基本も教えてくれた。
T先生が副教本に使っていたのは、
↑『わたしはピアニスト』だった。この表紙の絵、めっちゃ懐かしい!!バイエルの次は、ブルグミューラー25を使っていたと思うが、T先生はもうどうでもよくなったのか途中から『好きなの持ってきていいよ』になった。
このころ、実家の真下から、中学の近くに教室が移転。ひとりで自転車で行ける距離だった。自宅練習の習慣はないままだったので全く上達はしなかったが、ピアノ教室に行くことが苦痛ということはなくなった。
発表会は夏合宿の他、広くなった移転先の教室でクリスマス会をT先生の生徒だけでやっていた。私がT先生の生徒になったのは、ちょうどそのクリスマス会の直前で、ピアノ教室の生徒の中ではまあまあな年齢ながら、ソロはまさかの
ジングルベル
だったこともあった。
幼稚園児でも弾けるアレンジだったと思う。
別にねじ込まなくていいのにアンサンブルにも出ることになり、めざせポケモンマスターの組に入って、たまにしか叩かないグロッケン担当だった。
別れの曲、そして未来へ…
6年生のクリスマス発表会では、コードにすると、CとGとG7しかほぼない左手でショパンの別れの曲を弾いた。同級生はちゃんとした演奏で乙女の祈りとか弾いてたけど、あんなヘタクソな別れの曲もないくらいのソロを先生が私でも弾ける編曲にしてくれた。
この年はソロはどうでもいい。
アンサンブルで事件発生。
T先生、私を忘れる
アンサンブルは学年ごとに演奏した。ピアノやエレクトーンを数人で弾く。もう一回書くが、みんなで、一曲を、弾く。
『ごめん、私ちゃん!先生、ちょっと忘れてて、私ちゃんのパートないねん!そやから、歌ってもらってもいい?なんか、誰々ちゃんが言うててんけど、夏合宿のカラオケで私ちゃんがこの歌を歌ってたって聞いたから』
前年は『めざせ!ポケモンマスター』で鉄琴をたまに叩く担当だった私。まあ、あのときは仕方ないよね。曜日が変わった直後で、本来出てなくてもおかしくないくらいだったし。でも、一年が過ぎて、
生徒の存在…忘れる??
その年の6年生のアンサンブルは、Kiroroのヒット曲『未来へ』だった。Kiroroはボーカルとピアノの二人組。何でそれをアンサンブルに選んだのかが今となっては謎でもあるが、とにかく私はピアノでもエレクトーンでもなく、ボーカルに決まった。
マイクは激烈ショボい、CDとカセットテープが使える機械にブッ挿すタイプの、エコーも何もないやつ。小学生くらいまでは体が弱く、今もある巨大扁桃がすぐに腫れて高熱をよく出していた私…発表会前に喉が痛くなったかと思うと、熱を出して声もほぼ出なくなり、病院に行った。
医師は、喉がこんなに腫れてたら唾を飲み込むのも痛いだろう。ましてこの状態で歌を歌うのは勧めたくない。休むとかはできないか?とドクターストップまでかかってしまった。
それでも私は、同級生達にとってもピアノの発表会なのに、ど真ん中に立って『未来へ』を歌った。ボーカルが登場するのは前代未聞。T先生の知人の司会者は、曲紹介でボーカル付きだと煽る。(やめとけ…でも後に司会を色々やった私でも、多分煽るわ)
そして、母と伯母の仲良し姉妹は盛大な勘違いをしていたのだった。ピアノが下手すぎて先生に存在を忘れられて自分が弾くパートがなく、『じゃあ、ごめん歌ってもらっていい?』となったのを、
大抜擢だと勘違い。
当日、喉の痛みを堪えながら、エコーや高音質で助けてくれるわけもないカスみたいなマイクで歌いながら母と伯母のほうを見ると…
感極まって姉妹で号泣。
もう…ネタバラしは、やめとこ…てなった。
そして、私は特に上手くなることもなく、高校生までピアノを習った。また曜日が変わり、F先生というこれまた優しい先生に教わった。発表会も教室でやるのではなく、近隣のホールを借りるようになった。T先生やF先生は私にクラシック曲を弾かせることを早々に諦め、リチャード・クレイダーマンやポール・モーリアなどに切り替えていた。それも激烈簡単バージョンに編曲してくれた。F先生のときにやっとまともにクレイダーマンの『星のセレナーデ』を弾いたかな。
あ、これ持ってた!懐かしい!!
子供のための…て書いてるやん(笑)
後に私はその発表会の司会者もしていた。
高3で何となくもういいかとピアノをやめたのだが……
大学生、ピアノの単位が危ない
私は女子大の教育系学科に進学することになった。これも父の気まぐれで、3月まで入試を受けて、合格した中から何となく選んだ学校だった。(ちなみに大学生活は楽しかった)
私が入学した学科は、まだ当時開設二年目くらいだった。必要な単位を取り、教育実習に行けば幼稚園教諭一種免許状が取れた。
入学式の翌日。ピアノの組分けテストがあると言われた。テストを受ける前にプリントが配られ、ピアノ経験の有無、経験者は経験年数を記入することになっていた。え?大学で最初にやるのが、まさかのピアノ?と思いつつ、私はふと考えた。
これ…多分正直に書いたらヤバい…
私はこう書いた。
- ピアノの経験 あり
- 経験年数 約7ヶ月
そして、ピアノや幼児音楽を担当する先生の前で、自分で選んできた曲を弾くテストを受けた。何でだかわからないが、学籍番号ではかなり後ろになるのに、なんと1番に呼ばれた。
保育園からピアノを習い、経験年数7ヶ月などと嘘を書いた私が弾いた曲…
『こぎつねこんこん』
伴奏は適当につけた。その後、クラス分けが発表された。1組から6組まであり、あれって弾いた意味あった?と思ったが、ピアノ完全未経験の人は1組、長年習っていて上手な人は5組、6組。3組の人はソナチネアルバムを授業で弾くようだった。
その授業は通年あり、単位をもらう条件は『バイエル下巻を弾けるようになること』だった。試験のときに3組まで一緒になったが、4〜6組の人は何をしていたのかわからない。
嘘を書き、『こぎつねこんこん』を演奏した私は2組に入っていた。電子ピアノが何台も置かれた教室での授業。ピアノがメインだったが、子供向けの歌を皆で歌ったりもした。ひとりずつ先生に指導を受け、その間他の人は電子ピアノにヘッドフォンをつけて練習。
2組のテキストは黄色バイエル。
小学生のときにT先生のゲロ甘判定で終えたあのバイエルが、大学のテキストかつ単位修得条件になるとは…
当然家にバイエルなど置いてあるわけもなく、もうY先生に『小学生のときのバイエルを探してきなさい』と言われてキレられることもないので、改めて購入。
(18歳でこれ買った)
よかった…ウソついてしまったけど、3組のソナチネでも私無理だったわ…2組がThis is 最高にちょうどいいクラスだわ…それに、バイエル下巻くらい余裕だろうと思っていた。
甘かった。
個人レッスンを受けると、ビビるほど弾けなかった。それも後半になってくるとまあまあ難しい。大学には防音のピアノ練習ブースもあり、単位を取るために朝早くとか昼休み、空き時間、学校が終わってからなど、そこで真面目に練習する友達もいた。ピアノ教室を紹介してもらって通う子もいた。
未経験で1組に入った子も、単位の条件は同じだったかな?忘れたけど。たった1年で未経験からバイエル下巻まで弾くのはとても大変だったと思う。
私はと言うと…またT先生の元に生徒として戻り、長年ピアノを習っていた大学生が黄色バイエルを教えてもらいに通った。
さすがに、単位取ったよ。
バイエル下巻やソナチネから一曲と、何曲か渡される唱歌みたいなのを弾く実技試験だったかな?まあビックリしたわ、やっとピアノから解放されたと思ったら、大学の授業でピアノ?しかもダメ出しされまくりィ?って(笑)
あれは確か「こどもと音楽」ていう授業だったっけ。1年生と2年生のときにほとんどの学生が履修していて、「こどもと音楽①〜④」まであったかな?ダメ出しされてヤバかったと言っても、子供の頃のY先生からすれば屁でもなく、もっと頑張って練習してね!と励ましてくれるような指導だった。授業も担当の先生のことも好きだった。私、基本的に音楽は好きだしね、聴くのも、歌うのも。
好きこそものの…?
私は、「好きこそ物の上手なれ」でも「下手の横好き」でも何でもいいと思っている。昔はもう顔も見たくないほど嫌いだったY先生も、私とは合わなかっただけでとてもいい先生だと聞いている。音楽系の高校か音大かを受験する生徒を自宅に呼んでレッスンしていたり、たまたま木曜日に通った同級生は私と違って普通に上手にピアノを弾いていたし。私が中学かそのくらいのときにピアノ教室をお辞めになったが、音楽療法か何かのお仕事をされると聞いた。
Y先生のような指導をする先生に『くっそー!次は絶対一回でマルをもらってやる〜!!』という子なら合うだろうし、T先生のように『ある程度弾けてたらいい、好きな曲をやって楽しんだらいいよ』のスタンスの先生に習って、何その難しい曲?!とビックリするような曲を発表会で弾いた子もいた。
早く始めてこそ!というお稽古ごとやスポーツもあるけれど、大体のことは本人のセンスや努力、好きかどうかで、いつ始めても何でも上手くなれる。
中学の音楽の授業で三年間お世話になった男性の先生は、生まれたその日からピアノ弾いてたんじゃないか?と思うくらい上手で心に響く演奏をする方だったが、個人的にお話したときに、『ピアノを本格的にやったのは大学から』と聞いてビビり散らかした。音楽の先生は、卒業式の証書授与のときにピアノを弾いていたが、私はそれだけでもう泣いてたくらいだった。
私は今は、自分のピアノのド下手さを親や先生のせいにする気はない。話のネタくらいにはするけどね(笑)
でも…子の親でもある今あの体験を思い出すと、やっぱり子供があまりにも嫌がっているとなったときは、よく話を聞いて、どうしていくかを親子で一緒に考えてほしいな。金ドブは普通にもったいないし、せっかくお稽古をしてもそれが嫌いになったらもったいない。
向き不向きもある。
ピアノを子供に習わせたら、『ピアノくらいはそれなりに弾けてほしい』『せっかく高いピアノを買ったんだから…』『一度始めたことを簡単にやめるのは今後の人間形成に云々』そんなふうに思う親の気持ちはわかる。
そこまでして、月謝を払い続けて、大人になった我が子がこうしてブログに、
地獄だったとか親よ金ドブに気づけとか書くようになったら、嫌じゃない?(笑)
その後私は、親があれこれやらせた習い事とは一切関係のないことに学生時代打ち込んで、ちょっとバイトくらいならできたり、人生のよき思い出になった。
まあ、そんなもんだなー…というお話。
特にオチは見つからなかった。