眠れぬ夜のひとりごと。

タイトル通り、眠れない夜の暇潰しにやってます。半分寝てて誤字多いです。

放送コンテストの話 高校編

さて、高校編。

高校編は書くのが何だか大変で、そして照れ臭くて、当時を思い出して胸が痛くなった。マグレで中学の大会で表彰されてきた私、さあ、高校ではどうなったのか?

 

高校は…二年生から

 

私は高校生になった。

 

が、前にも書いた通り、私が思い描いていた放送部はうちの高校にはなかった。ということで、ESSという英語部に入って、一年生は放送コンテストに出なかった。

 

高校の大会がいつやっているのかも知らず、一年生の頃にほぼ部員のいなかった放送部があることを知り、コンテストではないが『コンテスト向け講習会兼一年生のアナウンス発表』があることがわかったので、顧問の先生に申し込んでもらって参加した。

 

その会場となったのは、偶然にもA子ちゃんの通う高校で、ちゃんとした放送部も放送室もあり、何よりもA子ちゃんは一年生にして、高校のNHK杯大阪大会の優勝者となっていた。

 

私は一年生アナウンス発表会で、これも何の原稿を書いたか忘れたが読み、NHKアナウンサーからの指導も一番に手を挙げて指導してもらうことになった。が、まさかの…

 

ダメ出しもダメ出し。

 

何だか私の悪いところを論われ、指導時間も一番長かった。一応小さな表彰状は貰ったが、帰りにたまたま会ったそのアナウンサーに、私はそんなにヘタクソだったのかと質問したら、

 

『いや、君が一番だったと思いますよ』

 

と言ってくれた。この人は中学Nコンでも審査員をつとめていたアナウンサーで、あんなに皆の前でダメ出しをしていたのに、何ともサラリと褒めてくれた。それを聞いたA子ちゃんが、そのあと一緒に行ったマクドナルドかどこかで、私が貰ったあの小さな賞状に、綺麗な字で第一位と書いてくれた。順位とか、なかったんだけどね(笑)でも、嬉しかった。

 

そして、二年生の高校Nコンに出ることを決め、孤軍奮闘が始まったのだった。

 

高校は中学とは違う

 

誰に言われたのか忘れたが、高校の大会は中学とは比べものにならないほどにハイレベルだと聞かされて、私はそれを信じ込んでいた。この時点で、指導者もいない私はあれこれいろんな方法で、その高校レベルを知り、自分も高校レベルになることから始めなければならなかった。

 

↓やったこと↓

  • 前年度全国大会決勝CDを買う
  • それをモノマネできるほど聞く
  • その人達の学校宛に手紙を書く
  • 返事を貰ってメル友になる
  • 他校放送部のHP掲示板に書き込む
  • 中三の担任をまた頼る
  • 全国大会三連覇を達成した人と知り合う

 

などなど。なかなかのコミュ強ぶりを発揮したと我ながら思う。そんな私の書き込みを見た某高校放送部の顧問の先生が、『うちに読みの練習に来てみませんか?』と声をかけてくれたり、全国大会三連覇の人も返事をくれて、その後大学のコンテストまで世話をしてもらった。

 

アナウンス原稿も必死こいて書いた。高校にいた先生を紹介するというありきたりな原稿だったが、本当に必死に書いた。その先生に実際に話を聞き、ちゃんと自分で書いた。今考えたら下手な原稿だったけれど、思い入れのある作品だ。

 

高校Nコン大阪予選

 

中学のときは暑い中死ぬ気で録音して送った非公開予選だったが、高校は全て公開審査。行ってみてビックリしたが、普通の高校の普通の教室の普通の教卓にマイクを置いて、隣の部屋で審査員が聞いているという形式だった。

 

何番目の発表だったかは忘れたが、忘れたのは今だけでなく、当日も普通に忘れていた。

 

『次ですよ!』と誰かに言われたか『何番の人は?』と指摘され、私やん!!と焦って教卓へ出て読んだ。そして、全ての審査が終わると、予選通過者がその場で発表された。私の名前も呼ばれた。今度は同じくアナウンス部門にエントリーしていたA子ちゃんも予選通過。ディフェンディングチャンピオンA子ちゃんと、やっと高校レベルになった私、揃って決勝へ。

 

決勝は2週間後。

 

決勝は某区民ホールだった。受付をして、出番順が書かれた紙と当日課題原稿を貰う。A子ちゃんと私は、ホール外のロビーにあった椅子に一緒にいたと思う。中学は当日課題原稿があってもアナウンス部門が先だったが、高校は朗読部門にも課題文があり、朗読の人達は予選通過時にその文章を貰っているため、アナウンスが午後からだった。

 

私はあえて他の人の発表を聞かず、ギリギリまでホールの外にいた。出番の5番前にホールの壇上に上がり、練習してきた通りに読み、『奈良県のお茶が取れた』みたいな当日課題原稿も読んだ。さすがにもう、中二新人大会、中三Nコン決勝、高1のミニ大会などを経験していたので、緊張するようなことはなかった。

 

第二位入賞、大阪代表に。

 

高校Nコンのアナウンス・朗読部門は、北海道と兵庫県だったか以外は、各6名が代表と決まっていた。これも先に知っていたので、3位までに名前が呼ばれなかった時点で諦めた(笑)

 

ところが、二位に入った。

 

素直に嬉しかったかな。マグレマグレできた中学とは違い、CDが擦り切れるほど聞いたり、面識もない全国大会入賞者の学校宛に手紙を書いたり、他校の先生のご厚意で練習させてもらったりしていたので、努力が報われたとここで初めて素直に思えた気がする。その後、また入賞者だけで集まって、全国大会の出番順のクジを引いたり、後日NHK大阪放送局でアナウンサーの方から指導を受けたりと、全国大会に向けた準備が始まった。

 

全国大会の地、東京へ

 

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全国大会は東京で行われる。

準決勝までは、国立オリンピックセンター(以下、オリセン)での公開審査だ。私の高校からこの大会に出るのは私が初めてだったので、顧問も私も何も知らず、1964年の東京オリンピック選手村として使われたオリセンに宿泊できることを知らず、教職員が出張などで宿泊する青山のホテルに泊まることになった。私の学校は公立高校だったが、旅費や大会参加費は学校が持ってくれた。

 

(ちなみにお嬢様学校の方々は何とかプリンスホテルとかにご宿泊だそうだ)

 

A子ちゃんはもう前年に東京へ行っていたし、うちと違ってしっかりとした放送部のある公立の名門校の生徒だったので、きっちりオリセンに泊まっていた。青山のホテルで一人だなんて寂しくて、大阪から来た高校生の私、東京の青山からタクシーに乗ってオリセン宿泊組に会いに行き、お風呂に入ったりして、修学旅行みたいな夜を過ごし、ホテルに戻った。

 

恐ろしい凡ミス

 

このとき、私は恐ろしいレベルの凡ミスをやらかしてしまった。スーツケースには、伯母が買ってくれたミントグリーンのちょっと品のいいワンピースなどを詰めていた。東京観光のときにでも着なさいと、なかなか高いけど買ってくれていた。あとは制服のブラウス、普通のTシャツや下着など、全てのものを荷物に詰めたはずだった。

 

しかしこのときの母が、『制服のスカートがしわくちゃになるから』とクリーニングに出し、出発当日まで部屋に掛けてあった。

 

当然、忘れて出かけた。

 

気づいたとき既に新幹線内だか東京到着後。ちなみに母は今でもアイロンにかなりこだわる人である(笑)

 

顧問も私も焦ったが、ないものは仕方がないので、原宿のGAPでジーンズを買った。だって、制服のスカートを始めすべてのボトムスがなかったのだから。

 

いや、なんでジーパン?

 

裾直しもできずロールアップで履くことにして、とりあえずボトムス調達〜!と思っていたが、今になって考えれば紺色スカートとか買えばブラウスの下に履いて制服っぽくなるよね?

 

なぜ…思いつかない(;_;)

 

翌日の準々決勝は、伯母が買ってくれたミントグリーンのワンピースで出ることにした。ABCの3会場に分かれ、私の出番はBかCの93番だった。待ち時間の長さに疲れ、開放されていた練習場に行ってみたりもしたが、もう自分の発表の頃にはめちゃくちゃ疲れていた。

 

終わるとすぐ、メモ形式の講評用紙が置かれてあり、内容は覚えていない。とにかく、

 

終わったー!❤️

 

という達成感でいっぱい。A子ちゃんと二人で渋谷へ繰り出し、待ち合わせをしている人もいるのに忠犬ハチ公と写真を撮ったりした(笑)

 

全国大会に来ることができたことが嬉しく、もうこの先私には無関係〜と、翌日の準決勝のことなど考えもしていなかった。準決勝には課題文があったが、大会のしおりに4パターンくらい掲載されていたのだが、ほぼ読みもしていなかった。

 

というのも、私の年まで何年も、アナウンス・朗読部門の大阪代表が全国大会の準決勝に進んだことがなかったからだった。言い訳でしかないけど(笑)

 

まるで号外、準決勝進出者発表

 

翌日はまたホテルからオリセンへ行き、準決勝進出者発表があった。あちこちで準決勝に勝ち進んだ人や作品の名前が書かれた紙が配られていた。まるで、街中で配られる号外を貰うかのように、高校生たちが群がっていた。

 

そのとき、同じ大阪代表で朗読部門二位で全国大会に来ていた名門私立高校の三年生(前夜の修学旅行っぽいときに仲良くなっていた)が思いっきり走ってきて私に抱きついた。

 

私ちゃん!通ってるよ!

 

なんと私、

準決勝進出者の一人になっていた。

 

その先輩を含め朗読部門からは代表6名中4名、アナウンス部門は私が通過し、大阪としては久々の大躍進の年だった。

 

そんなことは考えもしなかった私のその日の格好は、なぜか32とデカデカと書いた安物のTシャツに、GAPで買って裾直しもしていないジーパン姿という超絶普段着だった。

 

でも、出番順は4番。

着替える暇もなく、準決勝の会場へ。

わけもわからず、準決勝に臨むことに。

もう本当に、わけもわからなかった(笑)

そんな格好、私だけだったし…

 

出番順が早いので、もう準決勝開始前から前列に座らされていた。このとき私のひとつ前に座っていた人は後にアナウンサーになった人だと後で知ったが、隣の人がそんなに美人かどうか見る余裕すらなく、後にたまたまテレビで見かけて、

 

こんな普段着ブスの私の隣に、

こんな超絶美人が座っていたのか…

 

なんて思った。

 

そしてこれが、私の高校生活最高順位となり、準決勝進出者60名には『入選』の賞状と記念メダルが授与された。準決に出るだけで入選なので、最高順位に嘘はないが、タイムオーバーで失格という結果だった(笑)

 

 

努力と悔し涙の、最後の夏

 

当然ながら、翌年高三でも大阪大会から出場した。このときは、全国大会三連覇の人、顔見知りになった長崎の先生などにきっちりと指導を受けたが、

 

大阪大会では順位を落とし、3位。

 

これがもう、会場の外に出て泣くほどに悔しく、簡単に受け入れられなかったことを覚えている。何で?どうして…?あんな何も知らなかった前年の私を、こんなに努力した今年の私が上回れないなんて、努力なんて実らないじゃないか…3位なんて嬉しくない。慰められたりもするし、友達になった他県の子からはバンバン優勝報告メールが届き、かなり落ち込んだ。

 

でも今にして思えば、代表6人に入れば何でもよく、他県が採用しているように、代表6人には順位をつけず、『入賞』とか『優秀賞』にしておけばいいのになーなんて今は思ってるし、2位でも3位でも、今となっては本気でどうでもいい。

 

最後の夏、さらなる悲劇。

 

東京へ行った私は、下手なくせに前年と同じか前年以上の結果を目指していた。ちなみに、高校野球の聖地が甲子園なら、高校放送コンテスト出場者が目指すのは、

 

NHKホールの舞台

 

である。それぞれの都道府県予選を勝ち抜いて代表になり、300人くらいが準々決勝に出て、ABCの3つの会場からそれぞれ上位20名、計60名が準決勝に進み、そこからさらに絞られた10名がNHKホールの舞台で決勝に挑むのだ。

 

号外の紙を貰う準決勝とは違い、決勝当日は、NHKホールのデカいスクリーンに、そのファイナリスト10名の学校名と名前が映し出される。あちこちから上がる悲鳴、歓声。そして、今から決勝に出るというのに、もうそのスクリーンに自分の名前を見ただけで泣いてしまう子も多数。そりゃそうだ、みんなここを目指してやってきたんだもんね。

 

今度はきちんと制服姿で準々決勝に臨んだ私、前年はチラ見しかしなかった準決勝課題文の練習もしていた。準々決勝の読みも悪くはなかったと思う。いろんな人の指導を受け、確実に二年生のときよりは上手く読んだはずなのだ。

 

しかし、

翌日の号外っぽい紙に、

私の名前はなかったのだ。

 

準々決勝敗退。

それが私の、最後の夏だった。

 

アナウンス部門からは、大阪大会で4位から6位だった人達が準決勝に進み、そのうち一人は決勝にも進んだ。大阪の大躍進は続いた。

 

でも、そんなことはどうでもよかった。

止まらない涙。

どこにもぶつけられない悔しさ。

 

A子ちゃんも、

準決勝進出はならなかった。

 

どこでだったか、

オリセンの宿泊部屋でかな、

二人抱き合って声を上げて泣いた。

 

ちなみについ最近私達は

『あれ青春やったよなー』

 

などとLINEで話していたけどね(笑)

 

大阪大会でも、全国大会でも、

何も知らず、実力も劣っていたはずの自分に負けた。誰に負けるよりも悔しかった。

 

このとき、関東の某県代表で、仲良くなっていた友達は、前年決勝進出から、準々決勝敗退となっていた。私と彼女はこれまた抱き合い、翌日の決勝は見たって悔しいし、渋谷に遊びに行こう!と言ってプリクラとか撮りに行った。何だかそのとき、ふと吹っ切れる気がした。

 

楽しいやん!これも、思い出やん!

 

今は思う。あのとき、悔しさを知ってよかったと。負け惜しみではなく本当に思う。その後いろんな高校生に教える機会を頂いたが、その子たちに接するとき、この『自分に負けた悔しい体験』をたくさんの子に伝え、その後どうしていくかが大事だと話すことができた。

 

負けを知っているから、

私は少し、強くなれた気がする。

正直、今は大阪3位だろうと準決に行けなかったこともどうでもいいが、高校は消化不良で終わったことが、自分のその後に繋がった。

 

…なーんてね(笑)

 

その後、私とA子ちゃんらは全国高校総合文化祭の放送部門にも出場し、私は朗読部門に出た。これは本当に楽しい思い出となり、たくさんの、今もSNSで繋がるような友達ができた。

 

はっきり覚えている。

その帰りのバスの中、私は決めた。

 

私は、まだやめない、と。