さて、高校を卒業した私は、イタリア旅行が授業ですみたいな神戸の女子大生となった。これは、イタリア旅行の話にも書いたと思うが、放送サークルがないところをまたも選んだ(笑)
しかし、大学というのは、他大学のサークルに入ることもできるため、進学先が決まってから、某私立大学放送局に入部希望のメールを送ってみたが、あっさり断られた。
が、自分の学校からバスで行ける某国立大学の放送系サークルが、びっくりするほど快く入部させてくれた。高校の大会で一緒だった子が同じ大学の別学科だったので、彼女と一緒にそこの大学の放送サークルに入ることになった。
サークル生活を満喫
学校が終わると用事がなくても部室に行って先輩達と食事に出かけたり、新歓コンパみたいな食事会があったり、夏合宿があったり、自分のラジオ番組をやらせてもらったり、学祭のステージで司会をやったり、彼氏もできてみたり、楽しい日々が始まった。他サークルとの交流も楽しく、これぞ大学生!みたいな、本当に楽しい日々だった。
大学Nコンにエントリーして本選に出場していた四年生の先輩がいて、コンテストのエントリーもスムーズだった。このときはまだ、読みの部門は朗読部門だけで、私は朗読部門に出ようとしていた。予選はMDを送る非公開審査。放送サークルの部室にきちんとした録音ブースもあったので、私のコンテスト人生史上最高に恵まれた環境で出場できる…はずだった。
1年生は出場見送り…そして。
ところが、どんなに読んでみても、全然うまくいかなかった。朗読部門に出た経験は高三の高校総合文化祭(文化部のインターハイともいわれるらしい)だけだったのと、その年の朗読部門の指定作品をあれこれ読んで、抽出箇所も考えてみたが…結局、部室で録音できる最終日になってもしっくりこず、出場を断念。
その後、惚れきっていた彼氏と別れてしまい、それがショックすぎて皆で協力すべきはずの学祭にも出られず、同期生たちとも気まずくなってしまい…サークルを辞めることになるのである。
二年生、またもや孤軍奮闘
この時点ではまだ退部をしていなかったので、二年生はその国立大学放送サークルから大学Nコンに出ることになった。出場辞退したものの、前年の大学Nコンは友人が私の実家に泊まって会場に着いていき、その彼女が朗読部門優勝という結果を出したことに触発され、今年は私も出る!!と決意。
このときの録音は、多分そのサークルの部室で録音してもらったはずだ。出品分をまとめて提出するはずなので、予選作品提出くらいまでは在籍していたのかな。あまり記憶にない。
読んだのは、指定作品のひとつ『野菊の墓』だった。予選は通過。もうこの頃には、イラっとする書き方かもしれないが、『予選くらいは通るだろう』と正直思っていたので、あっさり本選に出場。ホームページで発表された本選出場者10人に私の名前があった。
この年は、前年うちに泊まった友達と京都駅で合流し、一緒に会場へ向かった。
…京都?
そう、会場が東京だった高校放送コンテストとは違い、大学Nコンの本選会場や実行委員会があるのは京都なのだ。つまり、大阪在住の私は電車に乗ってヒュッと行けるのだった。
正直、このときの私は肩に力が入りまくっていた。高校Nコンよりだいぶ規模が小さく、各大学から何人とか何作品までと決まっているため出場者も少ないので、
入賞したいという気持ちがあった。
たった二年前のあの悔しさ。
消化不良の高校時代。
いい形で終わりたいという思いがあった。
当日のビデオを友人の男の子が撮ってくれていたので見たのだが、野菊の墓のラストシーンに表情まで引きずられ、
なんか苦しいの?
みたいな眉間にシワ寄せまくり、文章に引きずられまくりの読みをしていた。あと、信じられないぐらいデブで、泣きたかった(笑)
入賞(3位まで)ならず。
全員の順位が後で発表になるが、
確か10人か11人中、6位だった。
欲張りラストチャンス!
中学二年生で始めて放送コンテストなんていう未知のものにポンと突っ込まれた私も、気づけば成人し、大学3年生になっていた。
このときには、某国立大学を完全に退部。
でも、放送コンテストに出るためには…ひとつの大きなハードルがあったのだ。『所属団体があること』という規定があり、放送サークルを辞めてしまった私は突如苦境に立たされた。
でも、ただではコケない私。
放送系サークルを作った。
某大学アナウンス研究会
という、『アナウンス研究会ってかっこよくない?』みたいな適当な理由で名前をつけ、自分で書類を揃えて、出場することに。
次に困ったのは、
非公開MD審査の録音場所。
これは、京都の某大学に通っていて、前年の大会で仲良くなった男友達が、『遠いし1日しか来れないだろうけどうちに録音しにおいで』と声をかけてくれた。神かよ!
そして、3年生のときは…
アナウンス部門・朗読部門両方にエントリー
これは、前年に友人(うちに泊まったり京都で合流してた子)がやってのけており、私も挑戦してみることにした。
出場断念の一年目、苦しい表情で読んだ二年目と朗読の指定作品には恵まれなかったが、この年は私にピッタリの小説が指定作品の中にあった。
なぜこれがピッタリかというと、作中の会話文は全て我が地元、大阪弁だからだ。自分で書く作品紹介文みたいなのには、『ぜひ、ほんまもんの大阪弁をみなさんに聞いて頂きたい』みたいなことを書いた(笑)
選んだのは主人公夫妻が夫婦善哉を食べるシーン。ちなみに私は、高三の総文祭で読んだ白い巨塔、大学の野菊の墓、夫婦善哉と全てラストシーンを朗読箇所に選んでいる。
夫婦善哉に決めたとき、何となくパラパラ読んではみたが、会話文が多い。朗読部門は抽出箇所も審査基準に入るため、何のシーンだかわからないような場面を選んだり、『あれ』とか『あの話は…』みたいな、何の話?と思われてしまうようなところを選ぶと、減点されてしまう。そして、いくら私が大阪弁のネイティヴスピーカーといえど、聞き手はそうではない。
- あまり会話文が多すぎず
- 聞いただけで場面がわかる
ラストシーンを選んだのだった。
朗読部門はすんなり決まったが、
困ったのがアナウンス部門。
アナウンス部門は自分で原稿を書かなければならない。時間もないしネタもないし…もう朗読だけにしようかなと思ってたら、ハッ!!あるやん!イタリア宗教研修!!
普段から原稿を見てもらっている人に録音に行く日の朝一でメールを送り、手直しをしてもらい、何とかギリギリで両部門エントリーが叶った。そして京都へ向かい、アナウンス・夫婦善哉朗読・課題文朗読を録音してもらい、帰りは車で駅まで送ってもらって、無事に出品できたのでした。このときの予選音声データは、誰かに頼まれてGmailで送ったデータが今も残っている。本選のビデオをDVDにしてもらったものはどこかやっちゃったけど…💧
※↑と書いていたDVD、先日テレビ台の後ろから発見した。自分のブスさとバリゴリの普段着姿+変な化粧には引いたが、懐かしくて涙が出そうになった。きちんと置いておこう。
これが最後の、コンテスト。
そろそろ予選結果の封書が届き、ホームページ上でも告知がある頃かな、という時期のある日。授業を終えた私は、神戸三宮のサンマルクで友達とコーヒーを飲んでいた。そこへ母からの電話が。友達に電話をしてくると伝え、お店の外に出ると、
母『放送コンテストの封書来てる』
私『開けていいよ、結果知ってるから』
母『通過って書いてる。あかんの?』
私『通過がアカンて、電車かw』
母『いけたん?』
私『うん!あ、実は今結果知った!切るわ』
こんなやりとりで自分の予選通過を知った。ちなみに私は大学入試の結果が届いたときも外出していて、母に開封してもらったのだが
『合格通知って書いてるけど
合格とも不合格とも書いてない』
という吹き出しそうなことをめちゃくちゃ不安げに言っていた。いやいや、不合格なら不合格通知が来るんじゃないの??と笑い転げてしまった。母は受かっても落ちても『合格通知』が来て、そこに合格か不合格か書いてあると思っていたらしい。
予選は通過。
さあ、本選だ!
大学Nコンの本選は12月に行われる。それまで何してたっけな?忘れた。でもとにかく、予選通過から本選までも、本選当日も、肩の力がふわりと抜けていた。
泣いても笑っても、
多分人生最後の放送コンテスト。
始まり方は中学のあれだったけど、
気づけばもうこんなに何年も打ち込んできた。
それに高校最後にもうあんなに泣いた。
あとは、楽しくやろうじゃないか!
そして迎えた本選当日。家を出て梅田で寄り道して、電車で京都へ向かい、可愛らしいラブラドールレトリバーが道にいたので戯れ、空腹だったのでセブンイレブンで食べ物を買い込み、会場入り。
会場に着き、受付をすると出場者は控え室みたいなところへ通され、実行委員の人がアナウンス部門の課題文について説明してくれた。
どこかの都道府県を100字程度で紹介
というのが当日課題文。
お気づきだろうか?
当日課題文、自分で書くのね〜!?
朗読部門にも当日課題文あり。
島崎藤村の詩だったかな?
激烈忙しいやん!
当日課題文は何時までに書いて委員さんに渡すようにとのことだったが、さっさと数分で書き、渡しに行ったら…『えっ?』て顔されたし、同じ控え室にいた人達も『えっ?』てなってた。
自分の出身地でも、大学の所在地でも、全く何の関係もない都道府県でもよいということで、私は大学の近くでちょうど12月にやっている神戸ルミナリエのことをささっと書いた。一応、原稿を見てもらっている人に『これでいいかな?』と電話はしたが。
アナウンスの課題文に時間をかけている暇はない。私は朗読部門にも出るので、島崎藤村の詩も読めるようにしておかなければならない。100字の自作アナウンスより格段に時間を要するからだ。
…と思ったが、これもあまり深く考えず、文章の感じからこんな感じで読めばいいかと、とにかく言いづらいとか間違えそうなところに赤ペンで丸をつける程度にしておいた。
私は何事もドツボタイプなので、考えないのがよかったんだと当時も今も思う。
そして、先に朗読部門だったかアナウンスだったか、もうこれは曖昧だけど、スタジオのような練習室に入って出場者が最後の練習やチェックをする時間があっという間にやってきた。ここでも私は
ほぼ休憩。
これも正解だった。
なぜなら私だけ途中でスタジオ練習を抜けてホールに読みに行かなければならず、焦るのが嫌だったのでほぼ何もしなかった。『私さん、準備お願いします』と呼ばれ、皆がまだスタジオ練習をしているときにホールへ行くことになったのだった。
読むときも、全く緊張しなかった。中学では『助けてくれ〜』と亡き祖父に念じていたが、このときは『じっちゃん見てる?生きてたら見せてあげたかったなー』とか思いながら天井を見ていた。
で、またスタジオに戻って次の部門の練習をしていいですよと言われたが、普通に疲れていたので、また休憩していた。
アナウンス部門は、『あれ?何だか私だけ高校生の原稿みたい…?』と思った記憶がある。それだけ。もう本気で疲れて他の人の読みを聞いていなかった。
我こそはパイオニア?
こうして、私の放送コンテストは終わった。特に何の感情もなかったし、入賞したい!という気持ちもなかった。色々あったけど、最後は楽しめてよかったなー、高校以来の友達に再会できたり、新しい友達ができたりしたし…とそんな感じで思っていた。
審査結果発表までがこれまた長く、
しんどいわ…帰ろうかな…
と思うくらいだった。
二部門出るの、疲れるのよ…
そしていよいよ、結果発表。
出場者は前の方に座っていたかな。
このとき、かなり遠いところから来ている子と隣だったか前後だったかに座って言葉を交わしたり、元からの知り合いとも近くに座っていたので、和気藹々と結果発表を待っていた。
まず、朗読部門の審査結果発表。
3位、2位と呼ばれていく。
私は、朗読部門の審査途中から会場に入ったからか、ほとんどの発表を聞いていなかった。
そして、1位の発表。
私の名前が呼ばれた。
いや、正確には、
『優勝(か1位)は…神戸』
まで司会者が言った時点で、
そんな名前の学校は私の学校だけなので
私だとわかった。
やったー!!
と素直に喜んで、壇上に上がり、
表彰状を受け取って、
拍手に包まれて、また客席に戻る。
座席に戻り、近くの人達が祝ってくれて、優勝杯をとりあえず椅子のところに置いて、表彰状はどうしようかな?とか思っているあいだに、今度はアナウンス部門の入賞者発表。
3位は、友達の友達。
2位は、隣に座っていた先輩。
『第1位 神戸…』
固まったよね、一瞬。
え?神戸?て。
やったーとか何もなく、なぜかあたふたしてまた壇上に上がって表彰を受け、優勝杯を貰い、客席のほうを向いて舞台からおりるとき、
満場の大拍手
まさかの二冠達成となった私に、みんなスーツとか着てるのにユニクロのハイネックにジーパン姿の私に、会場中が惜しみない拍手を、いつ鳴り止むのかという拍手を贈ってくれた。
ああ、やっと、報われたんだ。
自分一人で会場に行っていたので、優勝杯ふたつと賞状二枚を自分で持っているしかなく、さすがにこれを持って電車に乗ることもできないので、優勝杯は自宅に郵送してもらうことになった。
嬉しい大荷物を抱えている私に、たくさんの人が祝福の言葉をかけてくれて、一緒に写真を撮ってくれた。いろんな人と連絡先を交換して、私の人生最後の放送コンテストは、最高の形で幕を閉じた。
ちなみに二部門に出て、
二部門とも優勝したのは、
私が初めて。
というか、その後何年かしてから大会規定が変わり、一人が二部門に出ることはできなくなったと聞いているため、再度の変更がない限り、もうこれを達成することはできなくなったようだ。高校野球にタイブレークが導入されたから板東英二の記録がもう破られないだろうみたいなアレ。
帰り道、あの予選用録音を手伝ってくれた男友達が、近くの居酒屋で二人だけの祝勝会をしてくれた。それがなんとも、嬉しかったな。
その後の私
それからは、アナウンスで時々仕事をするようになった。司会者だったり、録音のお仕事だったり、選挙のウグイスだったり、各地の高校生のコンテスト対策講座の講師をさせてもらったり。ありがたいことである。
中学二年の選挙管理委員に『早く帰りたくて』立候補したことから飛び込むことになった放送コンテストの世界。こんなに長くやるとは自分でも思っていなかった。
でも、えええ?のマグレ優勝の中学Nコンも、悔しさに泣きに泣いた高校Nコンも、肩の力を抜いて最後の思い出にと二部門に挑戦した大学Nコンも、私の人生の、大切な思い出だ。
なんとなく、書いてみたくなった。
書いてよかった。
あのときのいろんな気持ちを、
また思い出せたから。
…そんな、お話(笑)