帝王切開の話を書いたので、
何となく二度の妊娠について書いてみる。
赤裸々に(笑)
いきなり重たいが、『二度の』と書いたけれど、私は正確には三回妊娠した。次女妊娠前のことで、稽留流産となった。今回は触れないが、一生忘れないし、今もその子に会えなかったことを、心から残念に思っている。
第一子妊娠判明!
12年前の旅行のことを書ける記憶力(勉強にはまるで生かされない)の私だが、色々ありすぎてこの頃のことはあまり覚えていない。
妊娠判明は、こんな形でやってきた。
- パチンコ屋の帰りに
- マツキヨでチェックワンを購入
- 帰宅後、検査
- 2秒でくっきり陽性判定
- ビビる
ちなみにそのとき打っていたパチンコはAKBの台で、板野友美を選んですごい連チャンした。パチンコ屋デートというかただ夫に付き合わされただけだったが、妊娠判明時の記憶としてずっと頭に残るだろう。パチンコ屋ももう数年単位で行ってないけど、色々変わってるんだろうな。月のものが遅れてるなー、近所に(当時は)ドラッグストアもないし、買って帰るかーと思って買い、眠らせておく意味もないので検査をしたらバリバリの陽性だった。
どう思ったかさえ覚えていない。
え?みたいな感覚だったと思う。
とりあえず雑誌を買う
『はじめてのたまごクラブ』という雑誌を近所にあった書店で購入。そこは今、ドラッグストアに変わった(笑)ペラペラ読んでいたら、途中から、
- つわりの時食べられたものは?
- つわりをどう乗り越えた?
- 先輩ママのつわり体験談
と、とにかくつわりのことばかり書かれてあった。8週目頃に始まる人が多いとか書いていて、あー、私もあの『うっ…!』を体験するのねなんて思いつつ読んでいた。
全くつわりはなかった
どうやらこれは遺伝のようで、私の実母もその姉も、つわりに苦しんだ人はいない。昔のドラマではよく洗面台でゲーゲーやっていたが、『普通トイレやろ』とか突っ込んでいた。私はつわりのときトイレで吐こうとか決めてもいたが、吐きづわりは一切なかった。
病院を予約
妊娠したらまず病院を決めろと『初たま』に書いてあって、ちょうどその雑誌にも広告が出てたんだったか、家からまあまあ近い産婦人科病院を受診することにした。『無痛分娩がいつでもできる』のがウリらしく、痛いことは全部嫌な私はこれに飛びついた。
最初のうちは夫にも付き添ってもらったが、その意味を一切感じなくなり、途中からは一人で通った。出産予定日が決まったときのエコー画像には、7週2日と書いてあった。
エコーは4Dエコーで毎回DVDに記録してくれるのだが、ほぼ見たことがない。一度、性別を判定してくれる医師らしき人がいるという2chスレに動画を上げるためだけに使ったっけ。ちなみに、その人は『女児と判定します』と当てた。今はスレでは見てもらえないらしいけど、そこまでして性別を知りたかったんだなーと当時の自分を振り返る。
滋賀県とか大阪のめちゃ遠い病院で『早期性別判定』をやっている病院を見つけて、本気で行こうかと思ったがさすがにそこまではしなかった。そんな初期から気にしまくっていた性別は、結局8ヶ月までわからなかった。
絵に描いたような妊婦生活
その7週2日に予定日が確定し、母子手帳を貰った。その足で百貨店へ行って母子手帳ケースを買ってもらって、いよいよマタニティーな生活の始まりだ。マタニティーアロマボディトリートメントみたいなのに二軒ほど行ってみたり、強制だと勝手に思い込んで自治体の母親学級に行ってみたり。プレママ友的な人ができてお茶を飲んだり。まあ、そのプレママ友達は見事に全員、地元から去って行ったけど…
唯一のトラブル
はい、坐骨神経痛。
半泣きで過ごすほどの痛み。やっと安定期に入ったかな?という頃に襲った太ももから足にかけての痛みに、なんじゃこりゃと戸惑った。妊娠中痛かったのって…多分これくらいなんだけど、とにかく泣くほど痛かった。
不安との闘い
初産に限らないことだが、妊娠中期の『健診が月に一回』の頃はもう不安で不安で堪らなかった。4週間の何と長かったことか。同時にこの頃から、通っていた病院にも何となく不安にさせられるようなことがいくつかあり、妊娠中期は元気に過ごしながらも、心配や不安との闘いだった。
辰年 男と書かれていた腹帯
安産祈願はいつ行くのかと母がせっつくので、妊娠5ヶ月を迎えた戌の日に、関西の安産祈願といえばココ!
中山寺へ安産祈願をしに行った。
中山寺で頂く、性別が書かれてある岩田帯には様々な言い伝えがある。
- 書いてある性別の子が生まれる
- 書いてある性別と逆の子が生まれる
私は後者を知っていたので、『辰年 男』と書かれた帯を見て、『当たれば女だな』と思った。今は亡き伯母が、着帯日当日だった私にその岩田帯を巻いてくれた。
娘の帯祝いに際してうちの母親は『姉ちゃんこれどうやんの?』と姉頼み。伯母が巻いてくれた岩田帯を半日だけつけて過ごし、昔の人は毎日これを巻いていたのかぁと感慨深くなった。そして、よく考えたらその時点で辰年(2012年)、お礼参りで新しい帯を納めるわけで、回転早いなぁーなんて思いました。この中山寺へ行ったとき、戌の日ということでなかなかの混雑ぶりだったけど、ぶっちぎりで私のお腹が出てた(笑)伯母も『◯◯だけ産み月みたい』と言ってたのを覚えてます。
ちなみに腹帯は、腹巻タイプ+マジックテープベルトみたいなものを使っていた。トコちゃんベルトも買ったが、お腹中央部分に折れ目がついてしまい、あまり活用できなかった。
↑これだったかな。
転院を考える
この頃から、楽しいだけのマタニティライフではなくなってきた。坐骨神経痛も治り、相変わらず元気そのものだったけれど、検査結果を見逃されたり、無痛分娩について助産師さんに何気なく話を聞いたら『ほぼ無意味、最後は麻酔切るよ』とビビらされ、転院を考えるように。
でも、今どきはもう妊娠判明時に分娩予約をするのが当たり前。里帰りでもない8ヶ月の妊婦を受け入れてくれる産院などあるのだろうか。そこに、ある病院には分娩予約制がないことに気づき、メールを送ってみたのだった。
転院、決定。
10万円納めてあった予約金が2万円をキャンセル料として支払い、二人の子を産むこととなった病院へ転院。快く迎えてくれて、その日に性別も見てくれて(前の病院は見てくれなかった。隠しているわけではないそうだが。わからないならそう言ってほしい)、先生も看護師さんも優しかった。カフェスペースで一対一で色々説明してくれて、何よりも前の殺風景な病院で、『出産してる人…いる?』みたいな雰囲気は全くなく、健診に行くたびぐらいに、可愛らしいセレモニードレスを着た赤ちゃんが退院していき、安心できた。後期の妊婦を、紹介状があったとはいえ、よく受け入れてくれたと今も感謝している。
妊娠後期、出産準備
お腹が大きくなり、前の病院の助産師さんに8ヶ月のときに『臨月?』と聞かれたりしていたが、後期も元気だった。ベビー用品を揃え始め、後から考えたらいらないものだらけだったが、どうでもいいものほど、次女にお下がりをしていることが多い(笑)
胎動もどんどん感じ、幸せな日々。
後期に入り、健診が二週に一度になってからは、産院のそばのカフェでパスタランチを食べるか、産院の並びのケーキ屋さんで前回載せたレモンパイを買うのが楽しみでもあった。この頃には、名前も決めていたかな。夫と近くのショッピングモールをウォーキングがてら歩いたり、早く会いたいなーととにかく待ち遠しかった。当時26歳、それなりの体力もあったんだなぁ(笑)
臨月を迎える
私の出産予定日は5月頭だったので、臨月の週一健診はお花見散歩気分だった🌸これもよかったなぁと思う。極度の暑がり汗かきの私、これが真夏とかなら無理ィィィてなってたと思う。
そして前記事に書いたように、
無事帝王切開で第一子を出産。
そんなふうに生まれた長女も、
来年小学校入学。
長女の母子手帳には、誰に見せるわけでもないのに、『ですます調』でビッシリとあれこれ書いてある。ファミリアで当時もらえた『あかちゃんブック』もエコー画像のコピーを貼ってあれこれコメントを書き、今も置いてある。
いつかもし、長女が妊娠・出産を迎える時には、それを渡してあげられたらいいなと思う。
さて、次は次女のマタニティライフ?
を書き残しておきたいと思う。