夏の終わり、ツイッターでは物足りなくなるほど、懐かしさが込み上げてきたので、12年も前に行った学生時代の旅行のことを書いてみたいと思う。
私は何を間違えてか、まあまあなお嬢様方が集まっている女子大に進学してしまった。カトリックの学校で、学内のいたるところに聖母像があり、とても小さな規模の、見た目も学生数も高校ぐらいの学校だった。いや、高校よりも小さいくらい。
入学式からすでに『自分の来る場所じゃなかった』感はすごかったし、一目見てわかるお嬢様から、仲良くなってよく話を聞くと家めちゃめちゃ金持ちやん!な人まで色々いた。正直今でも、うちが同級生の中でいちばん貧乏だったと思っている。
そんな学校だったので、何だかセレブな感じの行事もあり、そのひとつが、本当の名前はボカすが『イタリア宗教研修』というものだった。1年から3年までキリスト教系の授業が必修だったのだが、この研修旅行は2単位と認定され、3年のキリスト教科目は受けなくてもよくなるというものだった。
(ちなみに私は、キリスト教とはまるで無縁の人生を生きていたが、小学校の図書室で読んだ聖書物語くらいから長年キリスト教には興味があり、大学のキリスト教系科目は苦にならないばかりか好きだし成績も結構良かった)
私には関係ないと思いつつも、イタリアかぁ、綺麗だろうなぁ、行ってみたいなぁと思った記憶がある。それを実家で話すと、父がポンと旅費を出してくれた。飛行機の燃料サーチャージもユーロも何もかも高いときだったが、よく出してくれたものだと思う。学校に納める旅費以外にも現地で必要な小遣いやらレンタルしたスーツケースやら、本当に物いりだった。
研修までに事前の勉強会とかがあったような気もするが忘れた。
そして、研修の時期は真冬。
まずロンドンのヒースロー空港まで行き、そこでアリタリア航空に乗り継いでミラノの空港へ向かった。研修で訪問するのは、
この四都市だった。アッシジてどこ?とか思っていたがメインとしては3泊くらい泊まったアッシジで、街がまるごと世界遺産みたいなところだった。
この旅行に行くとき、
引率の宗教学か何かのA先生は、
口癖のようにこう言っていた。
『イタリアの美味しいものや観光地は、皆さん卒業旅行かハネムーンで。今回は食事はサンドイッチなどにしてくださいね』
嫌ですけど?
この時は確か、小説ダ・ヴィンチ・コード大流行の影響があり、ミラノに行くのに『最後の晩餐』が見られないという残念な年だった。ていうか、悪いんだけど、
引率がA先生なのがハズレ
なのだった。
翌々年の研修旅行の引率は、キリスト教学の授業でお世話になり、とてもフレンドリーで個人的に研究室で話し込んでしまうほどだったB先生という方で、もちろんイタリアにもお詳しく…テレビで千原ジュニアか誰かが、
『フジモンと行くディズニーランドと自分らだけで行くのディズニーランドは全くの別物』
と言っていたがまさにそんな感じ。
私の引きが弱かった。
B先生の授業は色々受けていて、どれも面白かった。『キリスト教何とか論』とか『聖書概論』とか字面を見ただけでちょっと眠そうに思えるかもしれないが、私は大好きだったし、その授業で習った内容は今も色々覚えているし、普段の物の考えに生かされていると思うときもある。
その中に、学内にひとつしかなかった『大学っぽい』段差になった広い教室で受ける、キリスト教関連の宗教画を見て、その背景やら何やらを聞くというB先生の講義があった。昼食後の時間に、プロジェクターに画像を映すからか部屋が暗く、興味がなければ『寝ろ』と言われているような授業だが、私は楽しんで見ていた。
三年生でゼミを選ぶときにBゼミがあったら希望しようと思っていたくらい。残念ながらB先生は私達が三年生のときはゼミを受け持っていなかった。
そんなB先生とイタリアの美術館や教会を見てまわれたら、どんなに楽しかっただろう。のちに私の母校とは規模から何から全然違う総合大学の某学部の長となられたB先生とは今でもフェイスブックで繋がっている。先生がアップする写真には、先生を慕う学生さんとの楽しそうな様子が写っていて、今もきっとあの某県方言の独特な話し方で、面白い講義やゼミをしているのだろうな。
私の引きが、弱かった…
さて。
ミラノに着いたのは夜で、その日は寝るだけ。
翌日、ミラノ観光。
と、こんな感じでミラノの大聖堂がバリバリ工事中だったりした。
このときのミラノでは大後悔していることがある。日本人ガイドの人が『有名な揚げパンのお店があるので、行きたい人は案内する』とバスを降りるときに言っていた。間違いなく揚げパンと言った。
え?
こんなとこ来て揚げパン?
と思うと同時に、揚げパンといえばあの砂糖ガンガンまぶしの、昔の給食に出てきそうなアレを想像していた私、それをスルー。
これが、実はミラノのドゥオーモに行ったら絶対に食べてこなきゃ!と言われるレベルの行列必至の人気店ルイーニのパンツェロッティ、給食の揚げパンなどではなく、ミラノ在住者までもが激推しするという『揚げピザ』のお店だったと…
帰ってから知った。
その頃浮かれていた私は、有名店ルイーニ(調べたところ、今も人気健在とのこと)を見事にスルーして、この有名なアーケードの中でバカ高いパスタを食べて満足していた。
あとはスフォルツェスコ城とかいうこんなお城を見たらしく写真が残っているが記憶になく、2008年にアップしてあるフェイスブックのアルバムのキャプションにも『こんなお城行ったけど名前忘れた』などと書いてあった。ちなみに今、そのフェイスブックのアルバムから端末に保存し直して写真を載せている。
これでミラノは終わりだったかな。
パヴィアとかいう途中の街で何か見て、
次の目的地はフィレンツェ。
なんかもう、私みたいなのが行くとこじゃない感満載の地名だが、行ってきた、花の都フィレンツェ。
この画像は拾い物だが、確かこの絵を見に行った。調べたら、サン・マルコ修道院というところにある、受胎告知という絵だと
今知った。
いや、さすがに受胎告知は知ってるし、この絵を見たら受胎告知を描いていることはわかるけど、誰が描いてどこにあるかは忘れていたというか、知らなかった。
フィレンツェといえばウフィツィ美術館が有名で、そこにはダ・ヴィンチと誰かが描いた受胎告知があるが、この研修旅行はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に続きウフィツィ美術館もスルーだった。
フィレンツェのホテルに着いたのは夕食どきだった。A先生は途中のサービスエリアで何ユーロかで買えるサンドイッチを激推ししてきたが、何とか押し切って、ホテルの隣のレストランから宅配してもらうことになった。
うら若き女子大生、部屋でパーティーである。ただ、大して美味しくはなく、私が注文したこのムール貝のパスタは、
足のニオイがした(笑)
それすらも面白いのが若さというもので、ホテルのフロントにワインのコルク抜きを借りに行って、美人の友人と一緒に行ったからかフロントの男性に『キミ達部屋でパーティーかい?僕も行っていい?ハハハ冗談さ、素敵なパーティーを、レディ達』などと言われてこれまた私が洋画の吹き替えのモノマネっぽくして訳して笑い…箸が転んでも面白い二十歳の乙女達はフィレンツェの夜を楽しんだのだった。
写真の順序的にこちらが後だろうけど、翌日はフィレンツェのドゥオーモへ行った。ホテルから徒歩だったのか、街並みの写真が残っている。
有名なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。このように真下から見た写真よりも、ミケランジェロの丘から撮られた写真のほうが有名かと思う。
まあ、中に入って一通り見学したのだが、ここではクーポラ(茶色のドーム部分)に階段で上がるということになっていた。今調べてきたが、階段の段数…
464段
だそうだ。ちなみに私の実家は二階にあり、階段でいうと8段を3回、計24段上がる。これが面倒でエレベーターに乗る私には無理である。おまけに世界的観光地、行列になって上っていくと聞き、
無理。
…以外の結論に達することができず、是非行きたいが私はそんな階段を往復すると明日以降歩けなくなるレベルなので、集合場所で待ってるから皆で行ってほしいとA先生に言った。すると、一年後輩の女の子二人もパスを申し出た。A先生からは、三人で行動することを条件に、フリータイムとされた。
当時既に誰がどこからどう見てもデブだった私は即刻何か食べることにした。後輩になる二人に何が食べたいかと聞くと、『パスタ』と言うので適当なお店に入ることにした。
ガイドブックも持ってない、当然ながらイタリア語はわからない、フィレンツェで自由時間があるとは思っていないので、どこが美味しいかとか有名かもわからない。そこで店選びの基準を考えた。
- 客が多いこと
- 英語が通じること
- 価格表記がきちんとしていること
これは、ぼったくられたり、その他危険な目に遭わないために必要なことだったと今でも思う。ボッタクリではないにせよ観光地価格で少々は割高だろうし、味も大したことないかもしれない。でも、異国の地で、たったひとつの年齢差とはいえ後輩も連れているのだから、ちょっと離れたとこに有名店が〜とか、味は天下一品の穴場的お店が〜とかがたとえあったとしても、私は選ばなかったと思う。
その適当に選んだお店で、一応先輩らしく、『これは私のおごりね、パスタだけ注文するわけにいかないから』とブルスケッタと飲み物を注文した。お目当てのパスタは、私は大好物ボンゴレビアンコを、彼女達はアラビアータを食べることにした。
涙出るほど美味しかった。
もうさすがに味までは覚えていないが、今までの人生で食べたどのボンゴレビアンコよりも美味しかったのは確かだ。あんな適当に選んだ店であんな美味しいパスタが出てくるなら、きちんと調べて有名店とかに行っていれば一体どんな最高パスタが出てきたんだろうかと思う。アラビアータも絶品だったらしく、一年生の子達からはものすごくお礼を言われた。
『美味しい!絶対しんどいし、
階段上がらなくてよかったー!
パスタ最高〜!』
などと、行ってもしないのに三人で盛り上がった。いや、464段もの階段の先にあったのはパスタなんてどうでもいいほどの絶景であったろうとは思うが、
景色で腹は満たされない。
そして、ミケランジェロの丘へとバスで出発。フィレンツェの日程を終え、フィレンツェのあるトスカーナ州から、ウンブリア州はアッシジへと向かうことになった。
ミケランジェロの丘でお土産を買っていたら、
『これ、可愛いキミに』
と英語で言いつつ、やけにニヤニヤした若い男性店員さんが、可愛いキミどころか不細工な私におまけをくれた。
それを受け取ってふと見ると、ダビデ像とかみたいな裸体の彫刻の股間部分だけをキーホルダーにしたやつをくれたのだった。まあ相手としては下ネタグッズを渡された私の反応を楽しみたかったのだろうが、別に彫刻は元から裸なんだし、正直何とも思わなかったので、『サンキュー』と貰って帰ったら…
母が大ウケして気に入った。
ミケランジェロのチ…(自己規制)を略して
みけちん
という謎な名前で呼び、家の鍵をつけたそのキーホルダーを愛用していたが、犬の散歩中に紛失したとかで、今も残念がっている。
いや、ミケランジェロの丘でもらったけどさ、ミケランジェロのチ…ではないよね。どっちか言うとミケランジェロって彫刻を作った人よねと思ったが、母が喜んでくれたのでよかった。
(↑ミケランジェロの丘から眺める、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)
さて、研修旅行のメイン、
アッシジに到着。
アッシジでは、修道院に宿泊することになっていた。小さな街に3泊くらいして、あちこち見に行って、どれもこれも世界遺産だったが、今と違ってあれもこれも調べて行ったりしなかったので、あまり感想がない。
アッシジといえば、アメリカの大都市の名前にもなっている聖フランシスコの生きた街だ。フランシスコはイタリアの守護聖人であり、多分イタリア人は皆知っているローマ・カトリックの聖人の中ではとくに有名な人だ。『アッシジのフランシスコ』なんて聞いても、大学に入る前の私なら知らなかったが、
『オオカミや小鳥などの動物に説教をした』
とかそんな逸話が残っているそうだ。私も当時実家で飼っていた柴犬相手にしょっちゅう説教をしていたが、そういう意味の説教ではないらしい。サン・フランチェスコ大聖堂を始め、アッシジにはフランシスコに関連するとか、フランシスコが実際に過ごしたスポットがたくさんある。生まれた家もあったっけな。
うん、色々見に行った。
何が何だったか覚えてないだけで。
デカイ切り売りピザ食べたとか、今と違ってスマホやらwi-fiがないから、ネカフェみたいなパソコン使える店に入ったとか、皆で名もない教会に入ってみたらなぜかそこのおじさん神父に参加者中最もデブスな私がやたら気に入られボディタッチされて、集合写真でもどう見ても私だけ抱きしめられながら写っててA先生も『あの神父様はちょっと…』と眉をひそめてたとか、そんな思い出ばかり蘇る。
宿泊先の修道院に入ったとき、本当に何気なく、何かの記念になるかな?とその修道院の名前、住所、電話番号などが書かれた紙製のカードがご自由にお取りください的に置いてあったので1枚貰うことにして、財布に入れた。これが私を救うことになるとは思いもせずに。
(↑ピンクが可愛いサンタキアーラ聖堂)
アッシジ以降、朝は修道院の中でのミサに参加させてもらったり、毎朝ミサがあった。事件が起きたのは、アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)の身の回りの世話をした女性キアラ(クララ)の教会、サンタ・キアーラ聖堂でのミサに出た後だった。修道院で提供してもらう朝食の時間があるからと、皆さささーっと帰ってしまい、どういうわけか私だけそこに
取り残された。
そうよね、みんなフィレンツェで464段の階段を往復したんだもん、脚力が鍛えられたのよねきっとね。そしてこの私、
ガチ方向音痴。
え…修道院…どこだっけ?
修道院、何て名前?いや、知らんわ!
みんな知らなかったんじゃないかなぁ
というわけで、
何と、イタリアの小さな街で、
迷子になった。
まあ私はそんなことで取り乱すようなタイプではないので冷静ではあったが、携帯もない、地図もない、修道院の名前もわからない。名づけて『犬のおまわりさん状態』。
さてどうするか。
そこで登場したのが、
上に書いた修道院のカードだった。
そこらへんにあった公衆電話の受話器を取り、カードに書いてある番号に電話をかけた。英語で話しかけてみたが、私からの電話をとったシスターは、どうやら英語がわからないらしい。その修道院では、英語のわかるシスターのほうが少なかった。でも、私にイタリア語がわかるわけもないので、構わずそのまま話した。唯一、ジャポーネくらいは言ったかもしれない。
すると今度は英語のわかる人が電話口に出た。
『ハロー?』
『ハロー!私は今そちらに泊まっている、日本から来た学生です。名前は◯◯(綴りも言った)。今サンタ・キアーラ聖堂にいます。帰り道がわかりません。そこにいる日本人に代わってください。誰でも大丈夫です。多分皆朝食の部屋にいます』
その頃すでに、私がいないことに気づき、なぜか宿泊している部屋を見に行かれたりしていたそうだが、A先生がやっと電話口に出た。そして聖堂まで迎えに来てくれて、迷惑をかけたことを謝罪した私に、A先生は開口一番こう言った。
『ああ良かった。
はぐれたのがあなたでよかった』
暴言かよ
と思ってしまいそうだが、そうではない。もしこれが、『修道院のカードを持っていて電話をかけてくることができ、もしそれがなかったとしても英語がある程度できて、はぐれたサンタ・キアーラ聖堂から動かず、またフィレンツェでは後輩をつれて行動することのできた学生』の私以外だったら、どうなっていたかわからないからだ。電話番号どころか修道院の名前すらわからない中、焦って何とか帰ろうとして余計に居場所がわからなくなっていたかもしれないからだった。
何と優秀な方向音痴デブか
と12年越しで我ながら思う。
何か忘れたけど足に地味な怪我をしていて、皆に追いつけなかったというのもあるが、ただ私以外の子だったら、最初からはぐれないか、仮に皆から遅れても修道院の場所を覚えていて無事帰ってくると思うけど(笑)
そして、ド方向音痴のくせに生意気なことを書くと、『迷子になったらその場を動くな』これは鉄則である。もちろん、その場所が危険だったりしたらこの限りではないが。
あっ!あの人がいない!となったとき、それに気づいた人がまず思いつくのが、その前にいた場所もしくはそこまでの道中ではないだろうか。来た道を戻ってさっきの場所まで探しに行こうとなるはずだ。私のような方向音痴はもうおとなしく助けが来るのを待つしかない。道がわからないなら尚更動いてはならない。わかりもしないのに自力で帰ろうとしてはならない。余計に迷惑になるだろう。
ヨン様はポラリスは決して動かないから目印になると冬ソナで言っていたが、そのときは朝。ポラリスってどれ?な私には星も通用しないし、東西南北もわからない。本当に疑問なんだけど、どこにいても東西南北を認識できる人ってあれどうなってるの?私からしたら超人だ。
話を戻そう。
じゃあ、そのカードを持ってなかったらどうしたの?待ちぼうけ?最悪の最悪は、国際電話で日本に電話をかけるという方法がある。
確か、時差が7時間くらい(日本のほうが進んでいる)はずなので、イタリアの朝のミサの時間を考えれば日本時間は夕方前。大学に電話をかければまだ誰か人がいるはずだ。そうすれば、研修旅行の宿泊先くらいはわかるだろう。
緊急連絡先とかも、
そういえばなかったような気がするなぁ。
普通、あるよね?何かは(笑)連絡手段ナシ。
そしてこの場合、国際電話のかけ方を知っていなければならない。国際電話を海外から日本へかける方法、当時も今も、結構知らない人が多い。実際、イタリア滞在中も何人かに教えた。
日本の国番号81を押してから、固定電話も携帯電話も、最初の0を抜いた番号を押すと日本に電話をかけることができる。
日本に国際電話なんてしなくても、
もっと簡単な方法もある。
私の場合なら、サンタ・キアーラ聖堂に入り、ミサをやっていたくらいだから誰かアッシジの人がいるはず。その人に助けを求めるのだ。こんなことをやらかすのは私くらいかもしれないが、海外旅行での団体行動って、気をつけているつもりがアレ?と思ったら集団とはぐれていたなんて、よくあることだ。旅行記ブログとか読んでても、自分がはぐれたとか誰か連れがいなくなってとか、よく見かける。
言葉がわからないときに役に立つのが、写真。泊まっているところの写真があれば、それを見せると地元の人ならわかってくれる可能性が大いにある。『名前知らないけどここ見たことあるわ』とか、普通に生活しててもあるよね。私も二十歳のあの頃とは違って今は子を持つ親。子供達が海外に出かけるときは、今の時代の子だからスマホは持っているだろうから、『泊まってる場所の名前は覚えておくこと。着いたら外観の写真を撮っておくこと』はうるさがられても伝えたいと思う。
まあ、日本に、それも学校に電話なんてしてたら確実に大ごとになってただろうし、あのカードを何気なく取っていたのは大正解だったと思う。ていうか、ある程度待てば、誰かしらが『まだ聖堂にいるんじゃない?』と捜しに来てくれるはずだ。
そこまでのことがわかっていながら、
ド方向音痴でゴメンナサイ。
ちなみに今も、その修道院の場所も名前もわからないけど、滞在中は一人での行動はしなかったので、どうにか帰ってこられました。
さすがに疲れてその日の午前中の観光はパスして部屋で寝ていたが、アッシジは本当にコンパクトな歩きやすい街で、治安も良かった。なぜか、どう見てもバリバリ東洋人の私に『聖フランチェスコ大聖堂はどこですか?』とか聞いてくる外国人がいたりした。方向音痴なので当然わからないのだが、一緒にいた子の案内を通訳したり。
私の特性道聞かれ女がまさかイタリアでも炸裂するとは思わず笑ったが。本当にめちゃくちゃ道を聞かれる。これは今でも。外国人にも日本人にも、外にいれば誰かに道を聞かれる。優しく教えてくれそうな顔をしているのだと思いたいが、私以外にも大勢人がいても、選んだかのように私に道を尋ねる人の多いこと。本気で謎だ。
(↑アッシジで泊まっていた修道院内にある聖堂での朝ミサ。朝早かったことは覚えてる。)
ここで、追記。
12年前からは想像もつかないほどのネット社会となった今、私達が泊まったあの修道院を見つけられるか、家で寝転がりながら探してみた。
結論から書くと、発見した。
まず、手がかりにしたのは自分の写真。
でも、部屋の窓枠の前で撮ってるとか、なぜか裏口で撮ってるとか、礼拝堂の写真、あとはほぼ食堂で食べているときの写真しかなく、あまり修道院自体を探す手がかりにならず。外観か看板か、あのカードの写真でも残っていればよかったけど、フェイスブックに載せてあった写真にはなく、ネットで探すことに。
以外の手持ち情報、なし。
ということで、とりあえず『アッシジ 修道院 宿泊』でググってみた。日本人の旅行ブログがヒットしたが、どれも別のところらしい。そして、画像検索のところをタップして見てみる。うーん、ないな。聖フランシスコゆかりのサンダミアーノ修道院とか観光スポットが出てきたりとか。
続いて英語にしてみた。でも、まだ見つからない。が、もう一度検索ワードを変えて日本語で検索したところ、イタリアの修道院に泊まるのが好きだという人のブログを見つけ、もしかしたらそこかも?と思い、その中で紹介されていたアッシジの修道院の名前をコピーして貼りつけて、再度検索。
画像検索にしてみると、残念ながら別の修道院だった。が!!トリップアドバイザーの関連画像が引っかかり…
この画像にたどり着いた。逆に、ホテルの名前で検索してて、関係ない別のホテルが検索で引っかかったりしたらイラッとするけどね(笑)
この礼拝堂の写真、上に私が載せた写真に似ていないだろうか。ていうか…
ここだ!!間違いない!
トリップアドバイザーに戻り、関連画像の中からこの画像を探した。そしてリンクに飛ぶと…
こんな写真を見つけた。私の手元に一番多いのは食堂の写真だ。即、今度はまた自分のフェイスブックアルバムに戻り、食堂で撮った写真を見返した。
人が写っているのでトリミングしてあるが、後ろの壁にある十字架とその下の黒っぽいものが完全に一致している。
…とこんなプロセスであの修道院の名前がわかり、修道院のホームページにも辿り着いた。イタリア語なので何となくしかわからないが、『アクセス』っぽい単語を見つけたので開いてみると、所在地や迷子になったときの私がかけたであろう電話番号が載っていた。そして他のページも見てみると、宿泊料金や食事の時間、今は無料でwi-fiが使えることもわかった(笑)
ということで、名前も外観もわからない異国の修道院を特定した自分の中に
ネットストーカーの素質
などを感じたりもしたが、
『アッシジのどこかにあった修道院、思い出深いのに名前も知らず、写真も大体食べてるとこしかない…』
だったのが、修道院のサイトを見つけたことで、またいろんな思い出や記憶が蘇ってきた。
Casa Madonna della Pace - CASA MADONNA DELLA PACE
↑ココ
(追記終わり)
そして、アッシジを去る前の晩、
これまた事件が起きたのだった。
さて、アッシジ最終日からローマ、
その後編は次に書くことにする。