眠れぬ夜のひとりごと。

タイトル通り、眠れない夜の暇潰しにやってます。半分寝てて誤字多いです。

私を寝込ませる運動会の話。

ついに今週末、

私の大嫌いな、大の苦手な…

子供時代も親になってからも嫌で堪らない

 

運動会

 

がある。もうそれだけで憂鬱…

 

まず、場所取りのために深夜から並ぶ。去年までは、自分の子供の出番が終わったらさっさと帰ることができたので昼前には帰宅できたが、今年は年長組。昼食を挟んで最後のクラス対抗リレーまで、ずっとグラウンドにいなければならない。拷問以外の何物でもない。

 

運動会開始は午前3時?

 

学芸会や演奏会は特にしんどいことはないし、室内で椅子に座り、舞台に出てくる我が子をビデオで撮っていればいいだけなのだが、運動会はそうはいかない。

 

開門待ちの行列に暗いうちから並び、場所を取らなければならない。多分、1番に並んでいる人は前夜からいるんだと思う。子供の在園中に一度だけ、悪天候で翌日に順延になったことがあったが、私達は初年度で何もわからず適当に朝になってから行ったのでそんなに影響はなかったが、深夜組は二日連続で並んだのだろうか。

 

ひたすら開門の時間をじっと待ち、開門ダッシュはないが、シートを敷いたころにはすでに疲労困憊である。撮影スペースとかもないので、前列を取るには並ぶしかない。それに、運動会って『本部テント』に向かって踊ったりや何やらするけど、あれも嫌。保護者のほう向かせてやれよ、バタバタと位置を入れ替わるのもやめてくれ。本気でそう思う…

 

運動会イヤなことリスト

 

  • 深夜からの場所取り
  • 今年は弁当持参
  • 物凄い大荷物(自立一脚や3畳シート等)
  • ずっと屋外
  • 我が子の出番以外激烈暇

 

演奏会のときに買った自立式一脚が活躍してくれれば撮影はそんなに困らないけど、とにかく朝から一番暑い14時頃まで屋外にいると思うだけで精神が死ぬ。

 

徒競走は一瞬で終わるし、

組体操はどこにいるのかわからないし、

リレーなんて何走目かもわからない。

 

今年で最後だからとりあえずやるしかない。演奏会のときは1日寝込んだけど、運動会は多分3日くらい寝込むと思う…

 

レジャーシートは2畳サイズでは狭かったので、去年の運動会直後に3畳サイズを買ったが、今年は実家の母に下の子を預かってもらうので、3畳サイズ…いらなかったかも(笑)

 

とりあえず、直前に焦ると憂鬱さが増すので、場所取り並び用椅子の注文、ビデオの準備、しまいこんであったシートをクローゼットから出してコストコの袋に入れるなど、準備を始めてみた。もう今からしんどい(泣)

 

地獄の組体操

 

私は保育所に通っていて、運動会もそんなガチなものではなかったが、小学生のときは組み立て体操があった。余談だが、私にとっては『組み立て体操』が当たり前だったけれど、人から『え?組体操じゃない?』と言われたことがある。幼稚園のプログラムにも組み立て体操とあるので、関西の言い方なのだろうか。

 

私の小学校では、五年生と六年生が合同で組み立て体操をやるのが恒例だった。運動場で裸足、体操服は砂でドロドロ、どのポジションに当たってもしんどい…嫌なことまみれだった。なぜか全員が紅白帽の白をかぶるので、誰がどこにいるのかわからない。

 

練習は死ぬ気でやらされた。私は今でこそ巨大ババアだが、小学生のときは大きくも小さくもなかったので、『6人ピラミッドだと二段目』みたいなポジションだった。一番下の3人はとにかく重いし膝が痛いだろうし、私達二段目は人間の背中に手を置いてバランスを取り、自分達の上に最上段の人が立つ…という

 

何のドM体操やねん

 

という記憶しかない。1人技、2人技、3人、ドミノ倒し等の大人数…とやっていき、とにかく運動場に裸足という最悪さ。6人ピラミッドや5人で手を繋いで扇型を作るやつでは、ドン!という太鼓の合図でばさっと倒れなければならず、これまた痛いし汚れるし…

 

私は最近の組体操廃止論には大賛成だ。

 

ちなみに、5月生まれで体格の大きい我が子は、6人ピラミッドでは一番下らしい。予想はついてたけど。3人組の何やらでは、それぞれが違うポジションになるように工夫されているらしく、ずっと下ということではないそうだ。

 

…とりあえず、どこにいるか探さないと。

 

お弁当と子守りは母頼み

 

去年までは、自分の子の出番が終わったら、午後の親子競技をスルーしてさっさと帰宅していたので、弁当は持って行かなかった。でも、今年は午後の部に年長組のクラス対抗リレーがあるので、帰れない。運動会に限らず全ての行事で早帰りしてたけど、今年はどれも最後までいないといけないのがつらい。

 

友人知人のお子さんの幼稚園や保育園は、『運動会は昼前に終わる』とか『地域の体育館を貸し切って開催』とか羨ましいことだらけ。

 

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(↑おかずはこの弁当箱に入れて行く予定)

 

お弁当は母に作ってもらうことにして、1歳8ヶ月の下の子を連れて行っても親子ともに疲れるだけなので、実家で見てもらうことにした。去年は連れて行ったけど、早帰りでも十分疲れたし暑そうで可哀想だった。

 

場所取り並びは夫担当

 

年少、年中は夜中の暗いうちから夫婦で場所取り並びに参戦したが、夫婦で来ているのは私達くらいだった。しかも、年少の運動会のときは下の子を妊娠中だった。夫には今年は一人で行ってと言うと、今年も二人で行くと思っていたらしい。とにかく朝が来るまでじーっと待つ。背もたれ付きのアウトドアチェアの安いやつも買ったし、夫には今年は一人で並んでもらう。開門の頃には私も合流の予定。

 

 

 

写真・ビデオ撮影は私担当

 

これはいつものことだけど。我が子の立ち位置を聞くのは禁止になったので、自立一脚持参でどこへでも走っていって撮るしかない。組体操は動き回るだろうし、徒競走は一瞬で終わるし、昨日持ち帰ってきたプログラムには、『え?そんなのあった?』みたいなほぼ練習していないであろう競技もあり、我が子を撮れるかは自信がない。目も悪いし…。リレーなんてどうやって撮ろう?もう、考えるだけで頭が痛い。せめて夫がそれなりに写真を撮れる人だったら、ビデオとデジカメで役割分担ができたのに、壊滅的な下手さなので無理。

 

練習で疲れ果てている子供

 

我が子の幼稚園は、演奏会、運動会、学芸会のある週は当日を含めて、休みなしの7連続登園となる。土曜日と日曜日の分は行事の翌日、翌々日を代休にしている。

 

上の子は、幼稚園から帰ると目に見えて疲れ果てていて、手洗いをして着替えて布団に入ると、19時過ぎまで寝続けて、夕食と入浴のあとまた寝ていた。元気なときだと、昼寝を1時間でもすると夜更かしになってしまうタイプなので、よほど疲れているのだろうと思う。

 

リレーの練習で何度も走り、組体操で人に上に乗られ…話を聞く限り、給食の時間以外はほぼ運動会の練習らしい。そりゃ疲れるわ。小学校でいうと1時間目から4時間目まで全部体育みたいなもんやん。早く運動会を終えてゆっくりと休ませてやりたい。

 

結論、とにかく乗り切るのみ!

 

毎年、時期が近づいてくると考えるだけでゾッとしていた幼稚園の運動会も、とりあえずは今年で終わり。小学校は家から近いし、場所取り並びがあったり、忘れ物をしたりしても一旦家に帰ることもできる(幼稚園は遠すぎて無理)。それに、もういくつ寝ると、嫌でも運動会はやってくる。そして、何があろうとその日は終わる。それをじっと待つしかない。

 

そして私は一生運動会は嫌いだということは変わらないだろう

 

次に生まれ変わってくるときは、運動神経がよく、運動会が待ち遠しく、当日も大活躍!親になってからも我が子の運動会が楽しみ!という人に生まれてきたい。今生では絶対に無理なので、来世に期待しようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運転免許更新の話。

 

ついに届いてしまった。

 

運転免許更新のハガキ

 

そうか、まだ1歳くらいだった上の娘を連れて講習を受けに行って、もう5年も経つのか。更新…めんどくさい。

 

30万円で買った身分証

 

私が運転免許をとったのは、大学1年生のとき。実家から自転車ですぐのところに自動車教習所があり、そこへ通った。未だにわからないのだが、

 

何で免許取った?

 

まあ、18歳になったし…みたいな感じだったのだろうと思う。私は都会育ちで、車がなくても全く困らない場所に33年間住んでいる。だが、親はバリバリ車生活、ていうか私、車屋の娘なのだ。

 

免許を取ってから一度だけ、父が横に乗って運転してみようとしたことがあった記憶はあるんだけど、父ははっきりと理由を口にはしないものの、一人娘の私にだけは、運転をさせたがらない。若い頃はそろそろ私も運転したいと言ってみたこともあったけれど、『お前みたいなもんが(あ、別にこれ暴言じゃないよ)何しに運転するねん』とか、目を逸らし気味に言われ、認めてもらえなかった。

 

何なん?!

 

と思ったが、だんだんとわかってきた。父は私にだけは車を運転させたくないのだと。車屋の娘なのだから、免許を貰った次の日からでも運転させて、オークション会場行くとか陸運局へ行くとか、家業を手伝わせることもできるのに、絶対に乗せようとしない。これは、長年車に携わってきた父の、何だかこだわりのようなものなのかもしれない。ちなみに、母のことは使い放題。『今からどこどこへ行くからお前後ろついて来い』なんてことは日常茶飯事で母は嘆いている。私に運転させておいたら、役に立つこともあっただろうに。

 

ということで、私の運転免許証は完全に身分証明書としてしか使っていない。30万くらいしたよね?教習所って。高いのやら安いのやら(笑)

 

運転には向いていない

 

『父が運転させたがらないんだもーん』などと書いているが、私は多分、車の運転に向いていない。まず、教習所に半年通っていた。AT限定免許で、早い人は二週間で教習所卒業なのだが。それも、家の近所の教習所に、ド暇で長い大学の夏休みに入所したので、毎日でも通えるのにも関わらず。

 

ただ、半年ずーっと通ったわけではない。仮免許はすぐに取った。そこから何かめんどくさくなって全然行かなくなった。おまけに、行ってない間に仮免許証を紛失し、試験場に再発行に行った(笑)夏休みも終わり、毎日は通えなくなったのもあり、教習所完全放置。

 

ちなみに、仮免許の有効期限は半年。仮免が失効するからとにかく早く教習所に来てくれと電話がかかってきて、本当のガチギリギリで卒業した。早く行けと父に怒りまくられたのは言うまでもない。そして、仮免も卒検も一回ずつ落ちた。さすがに学科は全部一回で通ったけど、仮免試験は右側通行、卒検は信号無視という恥ずかしすぎる落ち方をした。

 

(仮免試験はセンターラインをタイヤ一個分以上かなんかはみ出した、卒検は交差点の右折で交差点の真ん中へ行こうとしたがそのとき赤信号だった)

 

『運動会は毎年リレーのアンカーだったのと、運転免許の試験はオール一発合格なのが人生における自慢』の母親に未だに笑われる。いや、落ちた奴が言うのもなんだが、大体の人が一回で通ってると思うんだけど?

 

まあ、それでもちゃんと合格し、試験場で死ぬほどブサイクな顔で撮られた写真の免許証をもらったが、とにかく空間認識能力が低く、物覚え(特に体で覚える系)が恐ろしく悪いので、運転を許さない父のおかげで今でも私は生きているのかもしれない。

 

ゴールド免許

 

私は運転しないので違反や事故を起こすわけもなく、無事故無違反

 

優良運転者である。

つまり

ゴールド免許を持っている。

 

有効期限は5年間、

講習時間は30分。

 

ただ、ゴールド免許になる前に免許証の紛失と失効をやらかしている。何であのとき、更新に行かなかったのかは覚えてないけど、初心者のグリーン免許からブルー免許になるときだったから、最初の更新に行かずに失効したことになる。

 

一回も運転してないのに免許失効て

ウケる。

 

たまたま更新時期の男友達がいて、その友達と試験場へ行って手続きし、無事に青免許を貰った。そこからは真面目に更新してきたよ(笑)

 

写真は持ち込み

 

試験場で手続きした初心者のときの免許証と、失効後に友達と行って講習を受けたときに貰った最初の青免許は、写真が…

 

エグいレベルのブスさ

 

だった。いや、写真がどうとかじゃなく私は実物がエグいレベルのブスなので、真実がそのまま写っただけなのだが、ゴールド免許になると、そのエグい写真を5年間持ち歩き、TSUTAYAの店員さんとかに見せる羽目にもなるのだ。

 

ということで、バチバチのガチガチのゴリゴリに化粧をして、家の近所の写真屋さんで免許証用の写真を撮ってもらっている。近々これもまた行くのか…と思うと、

 

死ぬほどめんどくさい。

 

そこまで必死こいて写真を準備しても

 

普通にブスである。

 

でも、あの試験場で秒で撮られてて誰もかれもが病人か悪人顔になるあの撮影とか、コンビニの前とかにあるスピード写真よりは格段にマシな写りになる。でも、美人はどう写っても美人なので、友達が普通に更新のときに撮った写真かつ本人は不満な仕上がりの写真が、バチバチのゴリゴリのメイクアップ&写真撮影のプロが撮った私の写真より千倍綺麗などということはしょっちゅうだが。

 

樹木希林の昔のCMではないが美人もそうでない人も、写真館で撮ってもらっての持ち込みオススメだよ。1500円ぐらいだし。スピード写真が800円とかなのを考えると安いと思う。

 

免許証の写真は笑ってはいけないので、少しでも好印象の写真にしようと思ったら、真顔だが口角を上げるといい。できる限り顔まわりの明度を上げる工夫をすれば、私レベルのブスでも5年間ぐらいは我慢できるのが撮れる。

 

今のところ免許証で顔の確認をされるような事態になったことはないが、最近はほぼスッピンで出歩いているので、職質とかされたら、『誰?』てなるほどバリゴリの化粧をして写った今の写真とも、そろそろお別れだ。

 

最大の鬼門は視力検査

 

運転免許の更新では、視力検査がある。裸眼の場合は片目で0.3以上、両眼で0.7以上ないと更新ができない。

 

私、多分、ない。

 

今回ついに、裸眼での更新を諦め、運転もしないのに『眼鏡等』の制限がついてしまうときがきた。『運転もしないのに制限がつくなんて嫌だ』となぜか思っていたが、逆よね。

 

運転しないんだから別にどんな制限がついてたって違反することもないのだから、気にすることないか…とやっと受け入れた。ていうか、もう最初からAT限定の免許だし(笑)

 

前回の視力検査は『なんとなく、こっちっぽい』で答えてギリギリいけたけど、あれから5年経ってるしもう絶対に無理。眼科行かないと…

 

今回の更新のために、

コンタクトレンズ買います…

増税前に行けるかな…

 

写真館に眼科に…

もう行くのめんどいわ出費はでかいわ

泣きたい。

 

そもそも裸眼生活に無理がある

 

私は目が悪い。

 

それをわかっていながら、眼鏡をかけるでもなく、コンタクトレンズを入れるでなく、裸眼で生活している。

 

前に『歯が悪い』と書いたが、

 

目悪い歯悪い顔悪い

 

悲惨である。

 

『目ェ悪い歯ァ悪い顔悪い』と

関西弁で発音すると語呂がいい(笑)

 

唯一褒められるのは、アナウンスのコンテストで入賞したり、選挙カーに乗って喋ったりもする声だけだが、それは

 

バリゴリの作り物

 

なのでいいとこなしの三重苦だ。

 

自分でもどうやって生きているのかと思うくらい、歯はないし視力は悪いし、やばい。

 

私は愛想のいいほうなので誰にでもにこやかに挨拶をするけど、よく人を無視しているらしい。違う、見えていないのだ。

 

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横断歩道の向かい側に立っている人は知り合いでもわからない。すれ違いざまかすれ違ってから、あっ!と気づいたらまだいいほうで、どこかで見たことのあるオッサンだなと思ったら自分の父親だったこともある。

 

先日は、家の近くの薬局で小中学校の同級生だった子に会い、15年以上ぶりだと声をかけたら何年も前から何度となく手を振ったが私は彼女を完全に無視していたらしい。必死で弁解した。視力が悪いのと、あまり周りを見ていないというのもある。とんでもない顔と格好で外出しているが、あまり知人に会うことはない。

 

多分、会ってるんだろうネ

 

ピント調節もおかしいので、テレビを見るときに顔をテレビに対して横に向けて見ていると母から指摘されたこともある。近くは見えるんだけどね、小さな字とかも普通に読めるし。

 

眼鏡は作ってみたこともあったけど全く馴染めず、コンタクトは眼科でやっていたフリートライアルで貰ってみたことがあるけど、クリアな景色に感動と驚愕はしたものの、日常的に使おうとは思わなかった。当時はそんなに自由になるお金もなかったから、高いなーと思って買えなかった。

 

でもそろそろ、裸眼生活は諦めるべきだろうなと思っている。視力も多分前の免許更新以来検査してないし、数値を伝えてもらうわけでもないので、自分の視力がどれくらいかをまず知らない。コンタクトを作りに眼科へ行って、視力測定をしてこようと思う。

 

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これ、目が悪い人が見ている風景なんだって。私はさすがにここまではいかないけど、これのクリア版画像を見てみたら、こっちのほうが近い。

 

ペーパードライバー講習

 

何度も検討したのが、ペーパードライバー講習。卒業した教習所のホームページを見てみたら、募集を当分中止するそうだ。先生が出張で来てくれるタイプのものもあるそうだが、まだそれは調べていない。

 

でも、40歳になるまでに一度は受けたいなぁと思っている。今、長女が通っている幼稚園とか次女のスイミングスクールとか、車で行けたらかなり近いのになーといつも思う。自転車でどこへでも行けることを自負してきたけど、今は前と後ろに子供を乗せているし、体力も落ちてるし。

 

もし、もし運転するのだとしたら、目をしっかり見えるようにして、ペーパードライバー講習を満足いくまで受けてからだなぁ。…いつになることやら。どうしても(アホなのに)頭で考えるタイプなので、体で覚えるのがダメ。ていうか、運動もダメ。18歳とか19歳の若いときにやって向いてないと思ったことは、やめといたほうがいいかな(笑)

 

結論

 

免許更新めんどい。

 

そんな話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

放送コンテストの話 大学編

さて、高校を卒業した私は、イタリア旅行が授業ですみたいな神戸の女子大生となった。これは、イタリア旅行の話にも書いたと思うが、放送サークルがないところをまたも選んだ(笑)

 

しかし、大学というのは、他大学のサークルに入ることもできるため、進学先が決まってから、某私立大学放送局に入部希望のメールを送ってみたが、あっさり断られた。

 

が、自分の学校からバスで行ける某国立大学の放送系サークルが、びっくりするほど快く入部させてくれた。高校の大会で一緒だった子が同じ大学の別学科だったので、彼女と一緒にそこの大学の放送サークルに入ることになった。

 

サークル生活を満喫

 

学校が終わると用事がなくても部室に行って先輩達と食事に出かけたり、新歓コンパみたいな食事会があったり、夏合宿があったり、自分のラジオ番組をやらせてもらったり、学祭のステージで司会をやったり、彼氏もできてみたり、楽しい日々が始まった。他サークルとの交流も楽しく、これぞ大学生!みたいな、本当に楽しい日々だった。

 

大学Nコンにエントリーして本選に出場していた四年生の先輩がいて、コンテストのエントリーもスムーズだった。このときはまだ、読みの部門は朗読部門だけで、私は朗読部門に出ようとしていた。予選はMDを送る非公開審査。放送サークルの部室にきちんとした録音ブースもあったので、私のコンテスト人生史上最高に恵まれた環境で出場できる…はずだった。

 

1年生は出場見送り…そして。

 

ところが、どんなに読んでみても、全然うまくいかなかった。朗読部門に出た経験は高三の高校総合文化祭(文化部のインターハイともいわれるらしい)だけだったのと、その年の朗読部門の指定作品をあれこれ読んで、抽出箇所も考えてみたが…結局、部室で録音できる最終日になってもしっくりこず、出場を断念。

 

その後、惚れきっていた彼氏と別れてしまい、それがショックすぎて皆で協力すべきはずの学祭にも出られず、同期生たちとも気まずくなってしまい…サークルを辞めることになるのである。

 

二年生、またもや孤軍奮闘

 

この時点ではまだ退部をしていなかったので、二年生はその国立大学放送サークルから大学Nコンに出ることになった。出場辞退したものの、前年の大学Nコンは友人が私の実家に泊まって会場に着いていき、その彼女が朗読部門優勝という結果を出したことに触発され、今年は私も出る!!と決意。

 

このときの録音は、多分そのサークルの部室で録音してもらったはずだ。出品分をまとめて提出するはずなので、予選作品提出くらいまでは在籍していたのかな。あまり記憶にない。

 

読んだのは、指定作品のひとつ『野菊の墓』だった。予選は通過。もうこの頃には、イラっとする書き方かもしれないが、『予選くらいは通るだろう』と正直思っていたので、あっさり本選に出場。ホームページで発表された本選出場者10人に私の名前があった。

 

この年は、前年うちに泊まった友達と京都駅で合流し、一緒に会場へ向かった。

 

…京都?

 

そう、会場が東京だった高校放送コンテストとは違い、大学Nコンの本選会場や実行委員会があるのは京都なのだ。つまり、大阪在住の私は電車に乗ってヒュッと行けるのだった。

 

正直、このときの私は肩に力が入りまくっていた。高校Nコンよりだいぶ規模が小さく、各大学から何人とか何作品までと決まっているため出場者も少ないので、

 

入賞したいという気持ちがあった。

 

たった二年前のあの悔しさ。

消化不良の高校時代。

いい形で終わりたいという思いがあった。

 

当日のビデオを友人の男の子が撮ってくれていたので見たのだが、野菊の墓のラストシーンに表情まで引きずられ、

 

なんか苦しいの?

 

みたいな眉間にシワ寄せまくり、文章に引きずられまくりの読みをしていた。あと、信じられないぐらいデブで、泣きたかった(笑)

 

入賞(3位まで)ならず。

 

全員の順位が後で発表になるが、

確か10人か11人中、6位だった。

 

欲張りラストチャンス!

 

中学二年生で始めて放送コンテストなんていう未知のものにポンと突っ込まれた私も、気づけば成人し、大学3年生になっていた。

 

このときには、某国立大学を完全に退部。

 

でも、放送コンテストに出るためには…ひとつの大きなハードルがあったのだ。『所属団体があること』という規定があり、放送サークルを辞めてしまった私は突如苦境に立たされた。

 

でも、ただではコケない私。

 

放送系サークルを作った。

 

某大学アナウンス研究会

 

という、『アナウンス研究会ってかっこよくない?』みたいな適当な理由で名前をつけ、自分で書類を揃えて、出場することに。

 

次に困ったのは、

非公開MD審査の録音場所。

これは、京都の某大学に通っていて、前年の大会で仲良くなった男友達が、『遠いし1日しか来れないだろうけどうちに録音しにおいで』と声をかけてくれた。神かよ!

 

そして、3年生のときは…

 

アナウンス部門・朗読部門両方にエントリー

 

これは、前年に友人(うちに泊まったり京都で合流してた子)がやってのけており、私も挑戦してみることにした。

 

出場断念の一年目、苦しい表情で読んだ二年目と朗読の指定作品には恵まれなかったが、この年は私にピッタリの小説が指定作品の中にあった。

 

織田作之助夫婦善哉

 

なぜこれがピッタリかというと、作中の会話文は全て我が地元、大阪弁だからだ。自分で書く作品紹介文みたいなのには、『ぜひ、ほんまもんの大阪弁をみなさんに聞いて頂きたい』みたいなことを書いた(笑)

 

選んだのは主人公夫妻が夫婦善哉を食べるシーン。ちなみに私は、高三の総文祭で読んだ白い巨塔、大学の野菊の墓夫婦善哉と全てラストシーンを朗読箇所に選んでいる。

 

夫婦善哉に決めたとき、何となくパラパラ読んではみたが、会話文が多い。朗読部門は抽出箇所も審査基準に入るため、何のシーンだかわからないような場面を選んだり、『あれ』とか『あの話は…』みたいな、何の話?と思われてしまうようなところを選ぶと、減点されてしまう。そして、いくら私が大阪弁ネイティヴスピーカーといえど、聞き手はそうではない。

 

  • あまり会話文が多すぎず
  • 聞いただけで場面がわかる

 

ラストシーンを選んだのだった。

 

朗読部門はすんなり決まったが、

困ったのがアナウンス部門。

アナウンス部門は自分で原稿を書かなければならない。時間もないしネタもないし…もう朗読だけにしようかなと思ってたら、ハッ!!あるやん!イタリア宗教研修!!

 

普段から原稿を見てもらっている人に録音に行く日の朝一でメールを送り、手直しをしてもらい、何とかギリギリで両部門エントリーが叶った。そして京都へ向かい、アナウンス・夫婦善哉朗読・課題文朗読を録音してもらい、帰りは車で駅まで送ってもらって、無事に出品できたのでした。このときの予選音声データは、誰かに頼まれてGmailで送ったデータが今も残っている。本選のビデオをDVDにしてもらったものはどこかやっちゃったけど…💧

 

※↑と書いていたDVD、先日テレビ台の後ろから発見した。自分のブスさとバリゴリの普段着姿+変な化粧には引いたが、懐かしくて涙が出そうになった。きちんと置いておこう。

 

これが最後の、コンテスト。

 

そろそろ予選結果の封書が届き、ホームページ上でも告知がある頃かな、という時期のある日。授業を終えた私は、神戸三宮のサンマルクで友達とコーヒーを飲んでいた。そこへ母からの電話が。友達に電話をしてくると伝え、お店の外に出ると、

 

母『放送コンテストの封書来てる』

私『開けていいよ、結果知ってるから』

母『通過って書いてる。あかんの?

私『通過がアカンて、電車かw』

母『いけたん?』

私『うん!あ、実は今結果知った!切るわ』

 

こんなやりとりで自分の予選通過を知った。ちなみに私は大学入試の結果が届いたときも外出していて、母に開封してもらったのだが

 

『合格通知って書いてるけど

合格とも不合格とも書いてない』

 

という吹き出しそうなことをめちゃくちゃ不安げに言っていた。いやいや、不合格なら不合格通知が来るんじゃないの??と笑い転げてしまった。母は受かっても落ちても『合格通知』が来て、そこに合格か不合格か書いてあると思っていたらしい。

 

予選は通過。

さあ、本選だ!

 

大学Nコンの本選は12月に行われる。それまで何してたっけな?忘れた。でもとにかく、予選通過から本選までも、本選当日も、肩の力がふわりと抜けていた。

 

泣いても笑っても、

多分人生最後の放送コンテスト。

 

始まり方は中学のあれだったけど、

気づけばもうこんなに何年も打ち込んできた。

それに高校最後にもうあんなに泣いた。

 

あとは、楽しくやろうじゃないか!

 

そして迎えた本選当日。家を出て梅田で寄り道して、電車で京都へ向かい、可愛らしいラブラドールレトリバーが道にいたので戯れ、空腹だったのでセブンイレブンで食べ物を買い込み、会場入り。

 

会場に着き、受付をすると出場者は控え室みたいなところへ通され、実行委員の人がアナウンス部門の課題文について説明してくれた。

 

どこかの都道府県を100字程度で紹介

 

というのが当日課題文。

お気づきだろうか?

日課題文、自分で書くのね〜!?

 

朗読部門にも当日課題文あり。

島崎藤村の詩だったかな?

 

激烈忙しいやん!

 

日課題文は何時までに書いて委員さんに渡すようにとのことだったが、さっさと数分で書き、渡しに行ったら…『えっ?』て顔されたし、同じ控え室にいた人達も『えっ?』てなってた。

 

自分の出身地でも、大学の所在地でも、全く何の関係もない都道府県でもよいということで、私は大学の近くでちょうど12月にやっている神戸ルミナリエのことをささっと書いた。一応、原稿を見てもらっている人に『これでいいかな?』と電話はしたが。

 

アナウンスの課題文に時間をかけている暇はない。私は朗読部門にも出るので、島崎藤村の詩も読めるようにしておかなければならない。100字の自作アナウンスより格段に時間を要するからだ。

 

…と思ったが、これもあまり深く考えず、文章の感じからこんな感じで読めばいいかと、とにかく言いづらいとか間違えそうなところに赤ペンで丸をつける程度にしておいた。

 

私は何事もドツボタイプなので、考えないのがよかったんだと当時も今も思う。

 

そして、先に朗読部門だったかアナウンスだったか、もうこれは曖昧だけど、スタジオのような練習室に入って出場者が最後の練習やチェックをする時間があっという間にやってきた。ここでも私は

 

ほぼ休憩。

 

これも正解だった。

 

なぜなら私だけ途中でスタジオ練習を抜けてホールに読みに行かなければならず、焦るのが嫌だったのでほぼ何もしなかった。『私さん、準備お願いします』と呼ばれ、皆がまだスタジオ練習をしているときにホールへ行くことになったのだった。

 

読むときも、全く緊張しなかった。中学では『助けてくれ〜』と亡き祖父に念じていたが、このときは『じっちゃん見てる?生きてたら見せてあげたかったなー』とか思いながら天井を見ていた。

 

で、またスタジオに戻って次の部門の練習をしていいですよと言われたが、普通に疲れていたので、また休憩していた。

 

アナウンス部門は、『あれ?何だか私だけ高校生の原稿みたい…?』と思った記憶がある。それだけ。もう本気で疲れて他の人の読みを聞いていなかった。

 

我こそはパイオニア

 

こうして、私の放送コンテストは終わった。特に何の感情もなかったし、入賞したい!という気持ちもなかった。色々あったけど、最後は楽しめてよかったなー、高校以来の友達に再会できたり、新しい友達ができたりしたし…とそんな感じで思っていた。

 

審査結果発表までがこれまた長く、

しんどいわ…帰ろうかな…

と思うくらいだった。

二部門出るの、疲れるのよ…

 

そしていよいよ、結果発表。

出場者は前の方に座っていたかな。

 

このとき、かなり遠いところから来ている子と隣だったか前後だったかに座って言葉を交わしたり、元からの知り合いとも近くに座っていたので、和気藹々と結果発表を待っていた。

 

まず、朗読部門の審査結果発表。

3位、2位と呼ばれていく。

私は、朗読部門の審査途中から会場に入ったからか、ほとんどの発表を聞いていなかった。

 

そして、1位の発表。

 

私の名前が呼ばれた。

 

いや、正確には、

『優勝(か1位)は…神戸』

まで司会者が言った時点で、

そんな名前の学校は私の学校だけなので

私だとわかった。

 

やったー!!

 

と素直に喜んで、壇上に上がり、

表彰状を受け取って、

優勝カップNHK杯を貰った。

拍手に包まれて、また客席に戻る。

 

座席に戻り、近くの人達が祝ってくれて、優勝杯をとりあえず椅子のところに置いて、表彰状はどうしようかな?とか思っているあいだに、今度はアナウンス部門の入賞者発表。

 

3位は、友達の友達。

2位は、隣に座っていた先輩。

 

『第1位 神戸…』

 

固まったよね、一瞬。

え?神戸?て。

 

やったーとか何もなく、なぜかあたふたしてまた壇上に上がって表彰を受け、優勝杯を貰い、客席のほうを向いて舞台からおりるとき、

 

満場の大拍手

 

まさかの二冠達成となった私に、みんなスーツとか着てるのにユニクロのハイネックにジーパン姿の私に、会場中が惜しみない拍手を、いつ鳴り止むのかという拍手を贈ってくれた。

 

ああ、やっと、報われたんだ。

 

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自分一人で会場に行っていたので、優勝杯ふたつと賞状二枚を自分で持っているしかなく、さすがにこれを持って電車に乗ることもできないので、優勝杯は自宅に郵送してもらうことになった。

 

嬉しい大荷物を抱えている私に、たくさんの人が祝福の言葉をかけてくれて、一緒に写真を撮ってくれた。いろんな人と連絡先を交換して、私の人生最後の放送コンテストは、最高の形で幕を閉じた。

 

ちなみに二部門に出て、

二部門とも優勝したのは、

私が初めて。

 

というか、その後何年かしてから大会規定が変わり、一人が二部門に出ることはできなくなったと聞いているため、再度の変更がない限り、もうこれを達成することはできなくなったようだ。高校野球タイブレークが導入されたから板東英二の記録がもう破られないだろうみたいなアレ。

 

帰り道、あの予選用録音を手伝ってくれた男友達が、近くの居酒屋で二人だけの祝勝会をしてくれた。それがなんとも、嬉しかったな。

 

その後の私

 

それからは、アナウンスで時々仕事をするようになった。司会者だったり、録音のお仕事だったり、選挙のウグイスだったり、各地の高校生のコンテスト対策講座の講師をさせてもらったり。ありがたいことである。

 

中学二年の選挙管理委員に『早く帰りたくて』立候補したことから飛び込むことになった放送コンテストの世界。こんなに長くやるとは自分でも思っていなかった。

 

でも、えええ?のマグレ優勝の中学Nコンも、悔しさに泣きに泣いた高校Nコンも、肩の力を抜いて最後の思い出にと二部門に挑戦した大学Nコンも、私の人生の、大切な思い出だ。

 

なんとなく、書いてみたくなった。

書いてよかった。

あのときのいろんな気持ちを、

また思い出せたから。

 

…そんな、お話(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

放送コンテストの話 高校編

さて、高校編。

高校編は書くのが何だか大変で、そして照れ臭くて、当時を思い出して胸が痛くなった。マグレで中学の大会で表彰されてきた私、さあ、高校ではどうなったのか?

 

高校は…二年生から

 

私は高校生になった。

 

が、前にも書いた通り、私が思い描いていた放送部はうちの高校にはなかった。ということで、ESSという英語部に入って、一年生は放送コンテストに出なかった。

 

高校の大会がいつやっているのかも知らず、一年生の頃にほぼ部員のいなかった放送部があることを知り、コンテストではないが『コンテスト向け講習会兼一年生のアナウンス発表』があることがわかったので、顧問の先生に申し込んでもらって参加した。

 

その会場となったのは、偶然にもA子ちゃんの通う高校で、ちゃんとした放送部も放送室もあり、何よりもA子ちゃんは一年生にして、高校のNHK杯大阪大会の優勝者となっていた。

 

私は一年生アナウンス発表会で、これも何の原稿を書いたか忘れたが読み、NHKアナウンサーからの指導も一番に手を挙げて指導してもらうことになった。が、まさかの…

 

ダメ出しもダメ出し。

 

何だか私の悪いところを論われ、指導時間も一番長かった。一応小さな表彰状は貰ったが、帰りにたまたま会ったそのアナウンサーに、私はそんなにヘタクソだったのかと質問したら、

 

『いや、君が一番だったと思いますよ』

 

と言ってくれた。この人は中学Nコンでも審査員をつとめていたアナウンサーで、あんなに皆の前でダメ出しをしていたのに、何ともサラリと褒めてくれた。それを聞いたA子ちゃんが、そのあと一緒に行ったマクドナルドかどこかで、私が貰ったあの小さな賞状に、綺麗な字で第一位と書いてくれた。順位とか、なかったんだけどね(笑)でも、嬉しかった。

 

そして、二年生の高校Nコンに出ることを決め、孤軍奮闘が始まったのだった。

 

高校は中学とは違う

 

誰に言われたのか忘れたが、高校の大会は中学とは比べものにならないほどにハイレベルだと聞かされて、私はそれを信じ込んでいた。この時点で、指導者もいない私はあれこれいろんな方法で、その高校レベルを知り、自分も高校レベルになることから始めなければならなかった。

 

↓やったこと↓

  • 前年度全国大会決勝CDを買う
  • それをモノマネできるほど聞く
  • その人達の学校宛に手紙を書く
  • 返事を貰ってメル友になる
  • 他校放送部のHP掲示板に書き込む
  • 中三の担任をまた頼る
  • 全国大会三連覇を達成した人と知り合う

 

などなど。なかなかのコミュ強ぶりを発揮したと我ながら思う。そんな私の書き込みを見た某高校放送部の顧問の先生が、『うちに読みの練習に来てみませんか?』と声をかけてくれたり、全国大会三連覇の人も返事をくれて、その後大学のコンテストまで世話をしてもらった。

 

アナウンス原稿も必死こいて書いた。高校にいた先生を紹介するというありきたりな原稿だったが、本当に必死に書いた。その先生に実際に話を聞き、ちゃんと自分で書いた。今考えたら下手な原稿だったけれど、思い入れのある作品だ。

 

高校Nコン大阪予選

 

中学のときは暑い中死ぬ気で録音して送った非公開予選だったが、高校は全て公開審査。行ってみてビックリしたが、普通の高校の普通の教室の普通の教卓にマイクを置いて、隣の部屋で審査員が聞いているという形式だった。

 

何番目の発表だったかは忘れたが、忘れたのは今だけでなく、当日も普通に忘れていた。

 

『次ですよ!』と誰かに言われたか『何番の人は?』と指摘され、私やん!!と焦って教卓へ出て読んだ。そして、全ての審査が終わると、予選通過者がその場で発表された。私の名前も呼ばれた。今度は同じくアナウンス部門にエントリーしていたA子ちゃんも予選通過。ディフェンディングチャンピオンA子ちゃんと、やっと高校レベルになった私、揃って決勝へ。

 

決勝は2週間後。

 

決勝は某区民ホールだった。受付をして、出番順が書かれた紙と当日課題原稿を貰う。A子ちゃんと私は、ホール外のロビーにあった椅子に一緒にいたと思う。中学は当日課題原稿があってもアナウンス部門が先だったが、高校は朗読部門にも課題文があり、朗読の人達は予選通過時にその文章を貰っているため、アナウンスが午後からだった。

 

私はあえて他の人の発表を聞かず、ギリギリまでホールの外にいた。出番の5番前にホールの壇上に上がり、練習してきた通りに読み、『奈良県のお茶が取れた』みたいな当日課題原稿も読んだ。さすがにもう、中二新人大会、中三Nコン決勝、高1のミニ大会などを経験していたので、緊張するようなことはなかった。

 

第二位入賞、大阪代表に。

 

高校Nコンのアナウンス・朗読部門は、北海道と兵庫県だったか以外は、各6名が代表と決まっていた。これも先に知っていたので、3位までに名前が呼ばれなかった時点で諦めた(笑)

 

ところが、二位に入った。

 

素直に嬉しかったかな。マグレマグレできた中学とは違い、CDが擦り切れるほど聞いたり、面識もない全国大会入賞者の学校宛に手紙を書いたり、他校の先生のご厚意で練習させてもらったりしていたので、努力が報われたとここで初めて素直に思えた気がする。その後、また入賞者だけで集まって、全国大会の出番順のクジを引いたり、後日NHK大阪放送局でアナウンサーの方から指導を受けたりと、全国大会に向けた準備が始まった。

 

全国大会の地、東京へ

 

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全国大会は東京で行われる。

準決勝までは、国立オリンピックセンター(以下、オリセン)での公開審査だ。私の高校からこの大会に出るのは私が初めてだったので、顧問も私も何も知らず、1964年の東京オリンピック選手村として使われたオリセンに宿泊できることを知らず、教職員が出張などで宿泊する青山のホテルに泊まることになった。私の学校は公立高校だったが、旅費や大会参加費は学校が持ってくれた。

 

(ちなみにお嬢様学校の方々は何とかプリンスホテルとかにご宿泊だそうだ)

 

A子ちゃんはもう前年に東京へ行っていたし、うちと違ってしっかりとした放送部のある公立の名門校の生徒だったので、きっちりオリセンに泊まっていた。青山のホテルで一人だなんて寂しくて、大阪から来た高校生の私、東京の青山からタクシーに乗ってオリセン宿泊組に会いに行き、お風呂に入ったりして、修学旅行みたいな夜を過ごし、ホテルに戻った。

 

恐ろしい凡ミス

 

このとき、私は恐ろしいレベルの凡ミスをやらかしてしまった。スーツケースには、伯母が買ってくれたミントグリーンのちょっと品のいいワンピースなどを詰めていた。東京観光のときにでも着なさいと、なかなか高いけど買ってくれていた。あとは制服のブラウス、普通のTシャツや下着など、全てのものを荷物に詰めたはずだった。

 

しかしこのときの母が、『制服のスカートがしわくちゃになるから』とクリーニングに出し、出発当日まで部屋に掛けてあった。

 

当然、忘れて出かけた。

 

気づいたとき既に新幹線内だか東京到着後。ちなみに母は今でもアイロンにかなりこだわる人である(笑)

 

顧問も私も焦ったが、ないものは仕方がないので、原宿のGAPでジーンズを買った。だって、制服のスカートを始めすべてのボトムスがなかったのだから。

 

いや、なんでジーパン?

 

裾直しもできずロールアップで履くことにして、とりあえずボトムス調達〜!と思っていたが、今になって考えれば紺色スカートとか買えばブラウスの下に履いて制服っぽくなるよね?

 

なぜ…思いつかない(;_;)

 

翌日の準々決勝は、伯母が買ってくれたミントグリーンのワンピースで出ることにした。ABCの3会場に分かれ、私の出番はBかCの93番だった。待ち時間の長さに疲れ、開放されていた練習場に行ってみたりもしたが、もう自分の発表の頃にはめちゃくちゃ疲れていた。

 

終わるとすぐ、メモ形式の講評用紙が置かれてあり、内容は覚えていない。とにかく、

 

終わったー!❤️

 

という達成感でいっぱい。A子ちゃんと二人で渋谷へ繰り出し、待ち合わせをしている人もいるのに忠犬ハチ公と写真を撮ったりした(笑)

 

全国大会に来ることができたことが嬉しく、もうこの先私には無関係〜と、翌日の準決勝のことなど考えもしていなかった。準決勝には課題文があったが、大会のしおりに4パターンくらい掲載されていたのだが、ほぼ読みもしていなかった。

 

というのも、私の年まで何年も、アナウンス・朗読部門の大阪代表が全国大会の準決勝に進んだことがなかったからだった。言い訳でしかないけど(笑)

 

まるで号外、準決勝進出者発表

 

翌日はまたホテルからオリセンへ行き、準決勝進出者発表があった。あちこちで準決勝に勝ち進んだ人や作品の名前が書かれた紙が配られていた。まるで、街中で配られる号外を貰うかのように、高校生たちが群がっていた。

 

そのとき、同じ大阪代表で朗読部門二位で全国大会に来ていた名門私立高校の三年生(前夜の修学旅行っぽいときに仲良くなっていた)が思いっきり走ってきて私に抱きついた。

 

私ちゃん!通ってるよ!

 

なんと私、

準決勝進出者の一人になっていた。

 

その先輩を含め朗読部門からは代表6名中4名、アナウンス部門は私が通過し、大阪としては久々の大躍進の年だった。

 

そんなことは考えもしなかった私のその日の格好は、なぜか32とデカデカと書いた安物のTシャツに、GAPで買って裾直しもしていないジーパン姿という超絶普段着だった。

 

でも、出番順は4番。

着替える暇もなく、準決勝の会場へ。

わけもわからず、準決勝に臨むことに。

もう本当に、わけもわからなかった(笑)

そんな格好、私だけだったし…

 

出番順が早いので、もう準決勝開始前から前列に座らされていた。このとき私のひとつ前に座っていた人は後にアナウンサーになった人だと後で知ったが、隣の人がそんなに美人かどうか見る余裕すらなく、後にたまたまテレビで見かけて、

 

こんな普段着ブスの私の隣に、

こんな超絶美人が座っていたのか…

 

なんて思った。

 

そしてこれが、私の高校生活最高順位となり、準決勝進出者60名には『入選』の賞状と記念メダルが授与された。準決に出るだけで入選なので、最高順位に嘘はないが、タイムオーバーで失格という結果だった(笑)

 

 

努力と悔し涙の、最後の夏

 

当然ながら、翌年高三でも大阪大会から出場した。このときは、全国大会三連覇の人、顔見知りになった長崎の先生などにきっちりと指導を受けたが、

 

大阪大会では順位を落とし、3位。

 

これがもう、会場の外に出て泣くほどに悔しく、簡単に受け入れられなかったことを覚えている。何で?どうして…?あんな何も知らなかった前年の私を、こんなに努力した今年の私が上回れないなんて、努力なんて実らないじゃないか…3位なんて嬉しくない。慰められたりもするし、友達になった他県の子からはバンバン優勝報告メールが届き、かなり落ち込んだ。

 

でも今にして思えば、代表6人に入れば何でもよく、他県が採用しているように、代表6人には順位をつけず、『入賞』とか『優秀賞』にしておけばいいのになーなんて今は思ってるし、2位でも3位でも、今となっては本気でどうでもいい。

 

最後の夏、さらなる悲劇。

 

東京へ行った私は、下手なくせに前年と同じか前年以上の結果を目指していた。ちなみに、高校野球の聖地が甲子園なら、高校放送コンテスト出場者が目指すのは、

 

NHKホールの舞台

 

である。それぞれの都道府県予選を勝ち抜いて代表になり、300人くらいが準々決勝に出て、ABCの3つの会場からそれぞれ上位20名、計60名が準決勝に進み、そこからさらに絞られた10名がNHKホールの舞台で決勝に挑むのだ。

 

号外の紙を貰う準決勝とは違い、決勝当日は、NHKホールのデカいスクリーンに、そのファイナリスト10名の学校名と名前が映し出される。あちこちから上がる悲鳴、歓声。そして、今から決勝に出るというのに、もうそのスクリーンに自分の名前を見ただけで泣いてしまう子も多数。そりゃそうだ、みんなここを目指してやってきたんだもんね。

 

今度はきちんと制服姿で準々決勝に臨んだ私、前年はチラ見しかしなかった準決勝課題文の練習もしていた。準々決勝の読みも悪くはなかったと思う。いろんな人の指導を受け、確実に二年生のときよりは上手く読んだはずなのだ。

 

しかし、

翌日の号外っぽい紙に、

私の名前はなかったのだ。

 

準々決勝敗退。

それが私の、最後の夏だった。

 

アナウンス部門からは、大阪大会で4位から6位だった人達が準決勝に進み、そのうち一人は決勝にも進んだ。大阪の大躍進は続いた。

 

でも、そんなことはどうでもよかった。

止まらない涙。

どこにもぶつけられない悔しさ。

 

A子ちゃんも、

準決勝進出はならなかった。

 

どこでだったか、

オリセンの宿泊部屋でかな、

二人抱き合って声を上げて泣いた。

 

ちなみについ最近私達は

『あれ青春やったよなー』

 

などとLINEで話していたけどね(笑)

 

大阪大会でも、全国大会でも、

何も知らず、実力も劣っていたはずの自分に負けた。誰に負けるよりも悔しかった。

 

このとき、関東の某県代表で、仲良くなっていた友達は、前年決勝進出から、準々決勝敗退となっていた。私と彼女はこれまた抱き合い、翌日の決勝は見たって悔しいし、渋谷に遊びに行こう!と言ってプリクラとか撮りに行った。何だかそのとき、ふと吹っ切れる気がした。

 

楽しいやん!これも、思い出やん!

 

今は思う。あのとき、悔しさを知ってよかったと。負け惜しみではなく本当に思う。その後いろんな高校生に教える機会を頂いたが、その子たちに接するとき、この『自分に負けた悔しい体験』をたくさんの子に伝え、その後どうしていくかが大事だと話すことができた。

 

負けを知っているから、

私は少し、強くなれた気がする。

正直、今は大阪3位だろうと準決に行けなかったこともどうでもいいが、高校は消化不良で終わったことが、自分のその後に繋がった。

 

…なーんてね(笑)

 

その後、私とA子ちゃんらは全国高校総合文化祭の放送部門にも出場し、私は朗読部門に出た。これは本当に楽しい思い出となり、たくさんの、今もSNSで繋がるような友達ができた。

 

はっきり覚えている。

その帰りのバスの中、私は決めた。

 

私は、まだやめない、と。

 

 

 

放送コンテストの話 中学編

 

放送部にも、熱い暑い大会があるのをご存知だろうか?

 

今日は、イタリア研修よりまだ昔、そして超長編の放送コンテストの思い出を書きたくなった。まず、放送部の大会とは、何をするのか?何を競うのか?

 

大抵の人は知らないので

よく聞かれる(笑)

 

私も、ふとしたあのきっかけがなければ、今もそちら側の人間だっただろうから、人生は面白いなと思う。

 

最も大きな大会は、

NHK杯全国(高校・中学校)放送コンテスト。

高校の大会には、以下の部門がある。

 

  • アナウンス部
  • 朗読部門
  • ラジオドキュメント部門
  • テレビドキュメント部門
  • 創作ラジオドラマ部門
  • 創作テレビドラマ部門

 

『ラジオ』『テレビ』がつく番組部門は、私は参加したことがなく、正直何もわからないのでこの話には出てこない。

 

最初に放送部の大会だと書いたが、私が初めて出場した中学二年生の大阪市新人大会(市立の中学校の1年生・2年生が出場する大会)と、翌年出たNHK杯の中学放送コンテストの時点では、

 

私は放送部員ではなかった。

ていうか、うちの中学には放送部なかった。

 

じゃあ、どうやって大会に出たの?

話はそこから始めたいと思う。

 

【中学編 スタート】

 

渋々選挙管理委員になる

 

中学といえば、生徒会がある。当然私は生徒会役員に立候補するようなタイプではなかったので、『へー、そんな時期か』と思っていた。そんなある日の終礼の時間。

 

若い担任の先生が、『選挙管理委員会を各クラスから2名選ぶ。立候補で決まるまで帰らせない』と宣言。まあそんな仕事めんどくさいし、放課後残らなくちゃいけないし、教室に漂う『誰か手を挙げろ』の雰囲気に先生がブチギレたのを未だに覚えている。

 

私はとある理由でその日早く帰りたかったので、一人立候補者が出た時点で手を挙げた。自分が手を挙げれば帰れるからだ。急なことなので『今日の会合には参加できない』が通り、そのまま家に帰った。

 

担当は『告示』

 

どうやって決めたのかは知らないが、私は告示という係に当たっていた。他には生徒会選挙まで学校のあちこちに貼るポスター製作の係、選挙当日の開票係などがあった。

 

じゃあ告示は何をするのかというと、生徒会選挙の告示をするのだ。全校朝礼で朝礼台の上に立って、なかなかに長い(そして誰も聞いていない)文章を読む、それだけ。あとは立会演説会の当日に、選挙の投票の仕方について、今度は講堂の壇上に出て『信任投票の場合は何々で〜』とか読み上げるだけだった。

 

私は絵がとんでもなく下手なのでポスター係は向いていないし、放課後に残って開票なんてめんどくさいし、告示めっちゃラクやんと思っていた。でも、私の感覚が変わっているだけで、『全校朝礼で前に出てマイクで喋るなんて嫌だ』と思う人のほうが圧倒的に多いらしかった。

 

放送コンテストに出ないか

 

選管のことも忘れかけていた頃だったか、学年主任の先生(女性、体育担当)にこう言われた。へ?と思ったが、はいを選ばないと先に進めないドラクエ的質問かと思った私はこれを承知した。で、そんなコンテストに出ることも忘れていた頃、国語担当の先生と一緒にアナウンス原稿を作った。このときの原稿が内容がほぼ記憶にない。文化祭のことだったような…何だっけ?忘れた。

 

それもそのはず、大会前日に、体育館でマイクを使って一回こっきり練習しただけなので、わけもわからず放送コンテスト『とやら』に臨むことになった。

 

A子ちゃんと出会う

 

大会当日、学年主任の先生と大会会場へ向かい、ちょっと広めの会議室みたいなところへ着いた。誰も来ておらず、私一人だった。後でわかったのだが、私を引率してくれた先生は、そのコンテストの役員みたいなものだったらしく、ひとり取り残されていた。

 

何をしてよいやらわからず座っていたら、少しして後ろのドアが開き、

 

こんにちはー!

 

という元気な声が聞こえた。私に言っているのかわからなかったし、私が挨拶を返したかは記憶にない。ショートヘアに小顔が印象的な女の子が、私に声をかけてきた。その後も続々と、

 

こんにちは〜!

 

が聞こえたので、多分あれは放送部の作法だったのかもしれない。まあ、私は一番に着いたので、誰もいなかったからこんにちはも何もなかったが。

 

そのショートヘアの女の子と会話をした。多分、どこの学校?とか、何年生ですか?とか、そんな話だったと思う。記憶にはないけど、初対面だからそれくらいしか話すことはない。その子も私と同じ二年生で、この大会は新人大会といって一年生と二年生しか出ていないことを教えてくれた。そして、私はこんな場は初めてでたった一人でいるのを見たその子は、『私の先生と一緒に練習しよう』と誘ってくれた。

 

この子が、A子ちゃんである。

 

A子ちゃんは会場を出て、

顧問の先生らしき人とロビーに向かい、

発声練習を始めた。

先生も親切な人で、

私も続いてやるようにと言ってくれた。

 

A子ちゃん

 

あえいうえおあお!

 

 

ぁぇぃぅぇぉぁぉ…

 

こんなロビーで大声を張り上げて、え?今からやる大会ってそんなガチなの?え?私どうしたらいいの?と思いながら、ワ行まで何とかついていった。気づけばそこかしこでいろんな制服の子たちが原稿の読み練習をしたり、数人で揃って『あめんぼあかいなあいうえお』とかやっていた。

 

コンテストというからには順位や表彰があるのだろうから、こういう人達が入選するんだろうなぁ…と思っていた。それでも、A子ちゃんの発声練習は誰よりも大きなハキハキとした声で、住む世界が違うくらいに思っていた。

 

出番は18番

 

出場者が何人いたかは忘れたが、今でも覚えている、私は18番目だった。出番順は当日プログラムみたいな紙をもらうまでわからない。結構後ろのほうで、ホッとした記憶がある。1番とかだったら半泣きになってただろう。

 

司会者(も中学生)に名前を呼ばれると舞台に上がって自分の書いてきた原稿を読み、終わると一礼して座席に戻っていった。みんな、何やらマイクの高さを調整したり、マイクと口の距離を手で測ったりしていた。とにかく、自分より前に出てくる17人がやるように、私もやるしかない。出演者中一番ド下手が確定していたピアノの発表会よりオロオロした。

 

練習は前日の一回だけ、誰に読み方のアドバイスを受けたわけでもない、ピアノと違ってリハーサルもない、ていうか放送部員ですらない。

 

ついに私の学校名と名前が呼ばれた。17人分見ていたはずなのに、少し不安になってふと学年主任の先生のほうを見た。怒ったような顔で壇上に置かれたマイクと机を指差して、行け!行け!とジェスチャーしている。とりあえず、発表席に座って読んでみた。

 

別に頭が真っ白になったわけでもないが、生まれて初めてのことで、何が審査基準で何をしたらどうなって…がわからないので、なんとなくアナウンスっぽく読んで座席に戻った。

 

優秀賞に選ばれる

 

全員の発表が終わると、現役男性アナウンサーの講評があり、一人ずつ講評というか感想を言われた。何を言われたか全く記憶にないが、あー!終わった!と思っていたので興味もなかった。

 

その後、結果発表。前の方のテーブルにはなかなかの数のトロフィーや盾、賞状が置かれていた。新人大会なので、今考えたら半数近くが入選するようになってたのかな。

 

まず『努力賞』でかなりの人数が呼ばれた。私の名前は入っていなかった。『まあまあ、初めて来たんだから』となぜかこの時点で学年主任に慰められた

 

次に優良賞三人が呼ばれた。

 

確かに、聞いていたときに『おお、上手いなぁ…』と思った人が呼ばれていた。

 

続いて、第二位相当、優秀賞の発表。

 

某中学校   私さん

 

????????????

 

とりあえず壇上へ行って表彰状と盾を貰ったが、何が起こったのかいまいちよくわからなかった。優秀賞?私が?いや、昨日一回だけ原稿読んだだけの私が?審査員の人、何か間違ってるんじゃないの?

 

確かに、選挙管理委員の告示のときとか、それよりまだ遡って小五で放送委員になって下校放送の録音をしたときも、なんとなくアナウンスっぽい声を出してはいたが、普段から部活でやっている人達と競うコンテストで入賞するとは思いもしなかった。

 

そして最後に、最優秀賞の発表。

 

某中学校 A子さん

 

その日知り合ったばかりのA子ちゃんが最優秀賞を受賞した。ロビーに響く溌剌とした声で発声練習をしていた彼女は優勝者に相応しく、心からすごいと思ったが、その隣で屁のような声で人生初の発声練習をやっていた私が、優秀賞に選ばれたのは謎でしかなかった。

 

これには学年主任の先生もびっくり仰天、先生自ら学校に電話をかけて報告していた。月曜日の全校朝礼で、校長が改めて表彰状を読み上げ、再び表彰された。たまに運動部の子とかが朝礼で表彰されているのは見たことがあったが、あれって大会で貰った賞状を改めて校長が読んでるんだとそのとき知った(笑)

 

帰り際、家も結構近いし友達になろうよ、とA子ちゃんと連絡先を交換し合った。

 

あのときのA子ちゃん、

今どこでどうしてるのかな?

 

…というのは嘘で、今でも毎日のように連絡を取り合う友達である。

 

同じく帰り際、審査をしていた先生からも声をかけられ、すごい褒めてくれた。『来年の夏に大きな大会があるから是非挑戦してほしい』と言われた。が、別に放送部員ではない私は、その翌年の夏がくるまで、本気でそのことを忘れていた。

 

NHK杯大阪大会予選

 

放送コンテストに出たことなどほぼ忘れていた私は、中三になっていた。が、学年主任の先生が、『今度の大会はテープ審査。学校で録音して送るから』と完全決定事項として通達してきた。まあ、録音ならあんな思いをすることもないし気楽だろうと思っていたら、大間違いだった。

 

このときは、前年の原稿を作ってくれた国語の先生が自分の担任だった。また原稿を作ってもらい、音楽室で録音をすることになった。冷暖房完備の公立中学だったが、風の音がテープに入るからとめちゃくちゃ暑い中録音スタート。

 

このときの原稿は、

『皆さん、こんにちは』

 

というド定番の入りだった。何となくアナウンスっぽい声で『みなさんこんにちは』とマイクに向かって発した瞬間、

 

先生からNGが入った

 

先生『みなさん』

私『みなさん』

先生『違う、みなさん』

私『みなさん』

先生『いや、みなさん』

 

ほぼ無限ループに陥りかけたが、どうにか先生のOKが出る『みなさん』を言えるようになっていたらしい。どう違ったのかは正直わからない。何回みなさんでNGが出たか…

 

ジャルジャルの漫才で落語の師匠と弟子が『おまはん』を延々と天丼するネタがあるがまさにあんな感じで、みなさんから先に進まない。

 

先生が納得してくれる読みができるようになったら、今度は雑音との闘いだった。録音中に

 

  • 学校のチャイムが鳴った
  • 誰かを呼び出す学校放送が鳴った
  • 窓の側でカラスが鳴いた
  • 救急車が目の前を通った
  • 外にいる生徒の声が入った

 

とかいうどうしようもない理由で何度も何度も撮り直し、やっと、よし!これだ!というのが撮れた。もうこの時点で暑くてフラフラになりかけたが、やっと終わったー!とそのテープだかMDだったかを、学年主任の先生に聞いてもらいに行った。

 

『学校名と名前が入ってない』

 

というまさかの理由で撮り直し。

 

泣きたかった。

先に言ってくれよ。

 

その後も雑音やら暑さやらまたおかしくなった皆さんこんにちはやらと必死に闘い、どうにか撮り終えた頃には、汗だくになっていた。

 

泣き言を言いたいのはヒマな中学生に過ぎない私ではなく、これに付き合わされた担任の先生のほうだろうと今では思う。先生は高級品のマイクを私の録音に使ってくれたらしく、

 

『これ、アーカーゲーね、アーカーゲー』

 

AKG D7 ダイナミックマイク

AKG D7 ダイナミックマイク

 

(↑こんな感じのやつだったような。)

 

と何度も言っていたのを覚えている。こんなに雑音にも音質にもマイクにもこだわってるのは自分くらいだ!絶対に予選は通る!と先生は言っていた。後で書くが、これは本当だった。

 

そして、私のもとに、予選通過の報せが届き、決勝に駒を進めることとなった。余談だが、この録音のとき、さすがに暑いし疲れたし、ちょっと休憩しようということになり、たまたま音楽室だったので、冷房を効かせて、私はピアノを弾いた。

 

有名なWe are the worldという曲。

 

ただ何となく暇つぶしに、そこにピアノがあったから弾いてみただけだったのだが、学校にあったか私物かはわからないが、先生が私の演奏に合わせてギターを弾いてくれた。この誰も聴いていないセッションを、私は今も鮮明に覚えている。本当に、担任の先生には、感謝してもしきれない。

 

NHK杯大阪大会決勝

 

決勝は真夏だった。会場は、府下にある私学の中高一貫女子校のホール。新人大会の会議室とは違う規模だった。そして何よりも驚いたのが、参加者の多さ。某市公立中学の1、2年生しかいなかった新人大会とは規模が違った。そして、周りを見渡すと、私立中学のお嬢様方が集まり、当たり前のようにそこかしこで発声練習をしていた。

 

こんにちは〜!

 

も健在だった。そして、この人達は私と同じテープ審査で選ばれた、府下国公私立中学の精鋭達だと気づき、さすがにビビった。おまけに、全然知らなかったが、日課題原稿というものがあり、それもさばかなければならず、

 

半泣き。

『聞いてないよ〜』

 

ダチョウ倶楽部状態とでも言おうか。

 

この当日課題原稿は、A子ちゃんの顧問の先生がザッと読み方を指導してくれた。いやいや待ってよ、当日渡される原稿があるなんて今ここに来るまで知らなかったよ!なぜか覚えているのだが、須磨にある水族館のザリガニのニュース原稿だったと思う。

 

そうだ、あのA子ちゃんは?

…と思ったら、

 

朗読部門にエントリーしていた。

 

朗読部門?何それ?こないだみたいに全員がアナウンス原稿読むんじゃないの?え?テレビとかラジオの部門もあるの?何じゃそりゃ?!

 

これは…

とんでもないところに

来てしまった!

 

私の出番順は、これまた幸運なことに、22番と後ろのほうだった。また前の21人を観察すればいいと思っていた。ところが、スムーズに進行するため、自分の番の5番前になると、発表者の後ろのパイプ椅子で待機することになっていた。

 

出てくる人出てくる人、

バリバリ上手い。

学校名も何々学院とか女学院とかみたいな、本気で住む世界が違う人がバンバン登場。

声めっちゃ綺麗!

さっき貰ったばかりの原稿もトチらない!

 

でも、ま、いいや!と開き直り、死んだおじいちゃん助けてくれみたいなことを考えながら自分の出番を終えた。A子ちゃんの先生の指導のおかげで、何とか当日課題も読み終えることができ、その後の記憶は…ほぼない。

 

平民の私、もう力尽きていた。

 

午後からは(存在も知らなかった)朗読部門や番組部門で、その前にあったお昼休憩は母が持たせてくれたお弁当を、学年主任の先生のお知り合いの先生とそこの生徒さんと一緒に食べたくらいしか覚えてなく、朗読部門は聞いたかどうかも忘れてしまった。

 

まさかの結果に呆然

 

そして、結果発表がやってきた。平民の私、もう、完全に他人事。家を出る前から、母を落胆させたくないために、『今度の大会は前のとは規模も何も違うから入選とかは期待しないで』と言ってきていたし。

 

このときは、アナウンス部門の入賞者6名から発表された。優良賞三名、優秀賞二名、最優秀賞一名と最初から説明があった。

 

優良賞のうちの一人は、声のとても綺麗な、一学年後輩になる女の子が選ばれた。え?この子で優良賞?となるほど、本当に美しい声の子だった。優秀賞の二人は、私が『このどちらかが優勝かな?』と思った、某私立女子校の二年生と三年生だった。そして、最優秀賞の発表。

 

某市立某中学校 私さん

 

なんと、優勝してしまったのだ。

 

もうあまりのことに、何も覚えていない。

 

でもこのとき、ビックリも勿論あったけれど、何をやらせてもダメ、勉強はダメ、ピアノは月謝ドブ捨て状態、運動もからきし…の私にも、これならもう少しきちんとやってみれば、できるんじゃないか?と思ったのは覚えている。

 

まさかのデカいトロフィー🏆を持って帰ることになり、地元の駅に私を迎えに来ていた母親がビックリしていた。学校でも校長や担任の先生皆さんが喜んでくれて、担任の先生はクラスのホームルームで『大阪で一位』をめっちゃ強調して皆に報告していて、何か恥ずかしかった。

 

またもや衝撃の事実

 

少し話は戻り、決勝当日のことになるが、優勝トロフィーを貰って喜んで帰ろうとしていたら、入賞者だけ別室に呼ばれた。

 

『入賞した作品は、来月東京で行われるNHK杯全国中学校放送コンテストの大阪代表として推薦します』

 

と言われた。

えっ?ここで終わりじゃないの!?

私、全国大会の代表なの?!

 

その全国大会は非公開録音審査で、さすがに入選はならなかったが、あの最優秀賞トロフィーは大きな自信になり、今に繋がっている。

 

ちなみに、前年度優秀賞となった新人大会では、私が次の年の司会者をすることになった。私が出たときに司会者だった人は、何と高校の一年先輩という縁だった。後にこのNHK杯大阪大会決勝でも司会者をさせてもらった。このとき、顔見知りになっていた実行委員の先生かが、あの必死のパッチで暑い中録音した私の予選テープを聞いたときのことを話してくれた。

 

『これはすごい!と審査室の雰囲気が変わった。雑音ひとつなく、クリアな音声。これは決勝でも必ずいい線に行く。皆がおお!となったんだよ』

 

と教えてくれた。

 

あの日の担任の先生と私の努力は無駄ではなかったのだ…とちょっと感動した(笑)

 

さあ、中学を卒業したら高校生。

 

高校でもやるぞー!と最初は意気込んでいたが、進学先の高校にはまたもや放送部がない同然で、またも孤独なコンテスト出場者になったのは、次回のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サンカククリップの話。

私が毎日のように使っているサンカククリップ。一時期、ものすごい大ブームになったsAnのヘアアクセサリーだ。本当に入手困難で、百貨店などでのポップアップショップには早朝から長蛇の列ができ、整理券制だったり、抽選販売になることもあった。

 

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(この定番カラーのうち、真ん中のネイビー、その両隣の赤とターコイズを持っている)

 

超絶入手困難だったころからすれば、今はブームはある程度落ち着き、オンラインストアで普通に買えるまでになったが、初めの頃はなかなか手に入らず、やっと買えたときは感激したものだった。このときに買ったのは、どこかのお店とのコラボ商品で、バレッタ二個がセットになっているものだったので…高くついたが(笑)

 

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(↑初入手のサンカククリップ。

ハムみたいでなんか可愛い❤️)

 

まず、サンカククリップの存在を知ったのは、輸入子供服を扱うお店のセールに行ったときだった。小さな店舗の前に物凄い列ができていて、え?入場待ち?と思って、とりあえず並んだ。折り畳み椅子持参で来ている人や、始発で来た人もいるという。え?そんな人気なの?ここのセール…と思っていたら、前に並んでいた人との会話の中で、それは子供服セール入店待ちではなく、sAnのサンカククリップ購入の行列で、子供服セールに来た人は並ばなくてよいと判明。どうやら、そのお店でポップアップショップをしていたらしい。

 

何も知らず、行列に無意味に並んでしまったが、親切な人に教えてもらった通り、列の先頭まで行くと普通に入店できた。お店に入るときにサンカククリップを見たが、

 

『三角の髪留めやん』

 

と思った記憶がある。

 

これ、こんなに並んで買うほどのものなの?と思いつつ、買い物を終えて帰る頃、ふつふつと

 

あれ欲しい!

 

…という気持ちに(笑)

でも、さすがにあれだけ並んでいれば当然子供服屋さんでは普通に売り切れているので、

 

並べばよかったー!!

 

と後悔した。

 

そこからサンカククリップ複数入手までの道のりは長かった。そして、ものすごく大変だった。基本的には百貨店などでの期間限定ショップでの販売だったのだが、瞬殺でまず買えないのはわかっていたので最初は参戦せず。いつか落ち着けば買えるだろうし…とオンライン販売をするいくつかのお店の在庫状況とにらめっこする日々だったが、

 

出た瞬間に瞬殺…

 

まあ、1個手に入っただけでもいいか…

そう思い始めていたとき、

これは絶対欲しい!

と思うカラーが出たのだ。

 

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ピンク!

 

これは欲しい!お菓子屋さんとのコラボカラーで、京都伊勢丹でのポップアップショップ。整理券が配られることを知り、この出不精のデブの私、販売初日に始発で京都駅を目指し、朝から並んで整理券を貰い、駅前の地下街で時間を潰し、再集合の時間に百貨店に戻って無事購入!!

 

…ちなみにピンクサンカククリップ、最終日まで残ってた。

 

お菓子とセットで買うことになっていて、帰って食べたらそのお菓子もめちゃくちゃ美味しくて、京都まで行ったんだからとデパ地下のお土産コーナーであれこれ買って帰った。

 

次に行ったのは、自宅から近いショッピングモールのポップアップショップ。自転車で行けるので朝の5時台から行って、2番目か3番目に並んだ。このときはそのショッピングモールとのコラボクリップと、一番上に載せたレギュラーカラーが両方買えるチャンスだった。

 

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ちなみにこのとき、妊娠初期だった。並ぶのにも慣れたので、簡易椅子を持って参戦。涼しげなカラーがとても可愛らしく、でも本命は定番カラーのネイビー。これも柄の出方をじっくり見て、やっと最初からいちばん欲しかった色をゲット!コラボのブルー、全然つけてないな。なんか突然カチンって壊れたし💦

 

ヘアクリップの他にも、バレッタやイヤリングなど色々なアクリル製アクセサリーが並び、それらは比較的簡単に買える。サンカクバレッタとかギザギザバレッタとかジグザグバレッタ、バーバレッタなど色々持っている。

 

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これもどこかのショップとの限定コラボカラーで、幼児教室の帰りに子連れで買いに行ったピンクのジグザグバレッタ。後ろ姿の女の子は、当時3歳だった私の娘。自分にLサイズ、娘にSサイズを買った。

 

私はピンクが大好きだが、sAnのカラーでは特にアイボリーの色が好きで、ジグザグバレッタ、バーバレッタ、ギザギザバレッタ(娘用)などアイボリーをたくさん持っている。

 

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(↑アイボリー多め)

 

左上の小さなサンカククリップは娘用のSサイズ。私がネイビーを持っていて、ジグザグバレッタもお揃いのアイボリー。星型みたいなのはギザギザバレッタ。子供さんにも人気のバレッタだそうです。

 

巨体で服お揃いは無理なので

 

ヘアアクセサリーでお揃いにしたり(笑)

 

そして、右上に写っているのは、

『サジェステ』

というもの。これも便利!

アゴムが隠れるし、どことなく和風?

 

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でもやっぱり使うのは、ガシッ!と留められるヘアクリップ。今はかなり長い髪なので、かなり上にポニーテールで結んで、そこにサンカククリップをつけるのが定番化している。それか、結んでいない髪をくるくると巻いて上にあげ、そのままクリップで留めたり。とにかく便利。

 

先日はオンラインストアで、サンカククリップ定番カラーのターコイズと赤を買った。ついでに、雲の形のクラウドクリップも(笑)ちなみにこれ、何かのドラマで石原さとみがつけていたとか。石原さとみと同じ人間なのかどうかすら怪しい私も、三角以外も買ってみようと思っただけで、

 

石原さとみを目指したわけではありません(笑)

 

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サンカククリップはハムピンク、お菓子屋さんコラボマーブルピンク、定番ネイビー、ショッピングモールとのコラボ水色の4つで満足していたのだが、何と…

 

全部破損してしまった。

 

枕元に置いてて踏んだとか、開き過ぎてカチッと金具が取れたとかで、見事に4つとも壊してしまった…。

 

でも、大丈夫。

 

修理サービスがある!

 

送料だけ負担すれば、金具の破損は直してくれる。アクリル部分が割れた場合は無理らしいけど、どれも思い入れのあるクリップだったので、直してもらえてよかった。

 

最近趣味がないなー、あんなに好きだった化粧も面倒でしかなくなったし…と思っていたが、サンカククリップ収集が今の趣味みたいなもの。収集するだけでなく、毎日使う実用品。髪の下のほうにつけたりするアレンジもよく見るけど、私はほぼ上でガシッ専門(笑)

 

次はべっ甲かホワイトか…

まだまだ集めたいと思っている。

 

もともと色は淡色が好きなのだけど、これから秋冬なので、濃い赤やターコイズを使っていこうかな。バレッタもうまく使えるようになりたい!朝ドラ『なつぞら』でバレッタを見るたびに思う(笑)

 

お菓子屋さんコラボのピンクマーブル、

定番化してほしいなぁ〜

 

収集中&日常使い中の、

sAnヘアクリップのお話でした。

 

 

マタニティライフの話 二人目編

マタニティーライフ、下の子編。

 

まだ二年も経っていないので、記憶に新しく、上の子のときにはなかった経験も多いので、こちらのほうが長くなってしまった(笑)

 

私は、四学年差のきょうだいを希望していた。4歳になっていれば、着替えや排泄、食事もある程度自分でできるだろうし、おむつも取れている。言葉のコミュニケーションもできるし、私にはちょうどいいかな、と2017年度生まれの赤ちゃんを迎えたいなと思っていた。

 

不妊治療からのスタート

 

早く授かれればいいなと、早速病院へ。ホルモン値か何かの検査をすると、見事にあれこれ引っかかり、ショックを受けた。第二子妊娠までの道のりは、約8ヶ月に及んだ。

 

では、下の子の話は妊娠前からのスタートとしたい。記憶も新しいしね(笑)

 

まず訪ねたのは、先生の説明が穏やかでわかりやすく、自宅からも電車で15分ほどのところにある小さな産婦人科。上の子のときは何度かここで4Dエコーをしてもらったり、周りの人にも勧めて好評だったクリニック。

 

ここでわかったのは、まず高プロラクチン血症。プロラクチンの値が高く、服薬を勧められた。プロラクチンの値が高いと、排卵が抑制されてしまい、妊娠しにくくなると説明を受けた。もっとしっかりした説明だったけど、忘れてしまった。

 

そこで私は、家からほど近い商業施設の中にあるメディカルビルに入っている不妊治療専門クリニックに転院した。でも、先生とも医療方針ともあまり合わず。ネットで良さそうな不妊治療医院を見つけたので、初診予約待ちをして、そこへ通い始めた。

 

排卵誘発剤クロミッドを服用したり、何度も卵胞の大きさ計測に通ったり、筋肉注射をしたり、卵管造影検査をしたり、卵管が狭いから手術を勧められたり、プロラクチンが高くなり脳神経外科を紹介されたり、甲状腺の値がよくないから専門医を訪ねるように言われたり…色々あった。

 

さてさてやっとここから。

 

念願の妊娠判明

 

16年12月に受けた卵管造影後、翌1月に妊娠するも流産。流産でショックな上に、卵管造影後妊娠しやすくなるという期間も過ぎていく…でも、私の体質だけはうまくできていて、あんなにプロラクチンか何かの影響で生理周期が長いのに、産後や流産後の月経再開は早かった。

 

そのため、その翌月から治療再開。

 

クロミッドを飲んでも私が14日目に排卵しかけなわけなんてないのに、『まだですねー◯日後に見せに来てください』にちょっとイラついていた頃。三度目のエコーで排卵しかけの卵胞があるとのこと。排卵させる筋肉注射を打ち、『エコーの保険は月3回までなので、次回は自費になります。排卵確認にきてください』と言われた。

 

行かなかった。

 

自費が痛いからだけではなく、エコー検査をして『排卵していますね』となったとしても、妊娠成立しているかはわからない。それなら二週間待って、生理が来たら妊娠不成立、遅れたり検査薬で薄くても陽性が出たら妊娠。このふたつにひとつなのだから、行かなかった。

 

すると、妊娠!!

 

このとき、チェックワンとかドゥーテストは高いので、私は米国Amazonで妊娠検査薬(紙製とデジタル製)を個人輸入していた。生理予定日前から使えるということで使ってみたら、うっすらと陽性判定の線が。格安で数十本単位で持っていたので、毎日毎日検査をすると、妊娠判定線が濃くなっていった。そこで、高いから紙製で陽性が出てから使おうと思っていたチェックワンデジタル(今は国内でも買えます)を使用。

 

これは妊娠してなければ、

not pregnant

妊娠反応があれば

pregnant

 

とデジタル表示されるもの。

出ました!出ました!

 

『pregnant』

 

6週目にクリニックへ行き、

前回の妊娠では一度も見ることのできなかった胎児心拍が確認され、不妊治療専門クリニックを卒業し、紹介状を持って、上の子を出産した病院へ戻ることに。このときは念願も念願だったので、ただただ安堵し、嬉しかった。

 

排卵確認に行かなくていいやーどうせ妊娠してなかったら生理が来るんだし』

 

で本当に妊娠していたのだ。不妊治療専門クリニックからは『卒業祝い』としてひよこ柄のガーゼ手ぬぐいを頂いたが、今も未開封(笑)

 

エンジェルサウンズ無駄買い

 

前回の妊娠が流産だったため、やっぱり初期は不安だった。不妊治療をしていたので妊娠判明が早く、不安な時期が長かった…ので、お腹に当てると胎児の心音が聞こえるという『エンジェルサウンズ』という機械を買ってみた。が、

 

デブ過ぎて全く聞こえず。

 

もう、笑えるのか笑えないのかわからない…。全然聞こえないので逆に不安になり、4千円くらいで買ったのにすごい無駄な買い物になった。今も、押入れに眠っている(笑)

 

大らかすぎる妊婦生活

 

そして、安定期。

 

一人目妊娠中は自由がきき、アロマトリートメントに行ったりもしていたが、今度は幼稚園年少の上の子を抱えての生活。そして鬼遠い甲状腺専門医院への通院も継続。そして何より

 

初産より年をとっている

 

ということもあり、疲れやすくなっていて健診をネット予約で延期にしてもらったり、家で寝ていたこともあった。

 

(※妊婦健診は全て行きました)

 

分娩予約をしたのは、上の子を産んだのと同じ病院。リニューアルされてガラッと変わっていた。リニューアル前も好きだったけどね。

 

上の子のときは何ヶ月になってもあれだけ不安で心配で待ち遠しかった健診だったが、二人目はのんびりしていたら『えっ?もう健診!?』と、四週間の早さに驚くくらいだった。

 

そしてこのときも、

 

つわりは一切なし。

 

友人は『ほぼトイレに住んでた』『つわりが重すぎて入院した』『ゼリーしか食べられずそれも戻して5キロ痩せた』みたいな壮絶体験談を話してくれたが、私は丸っきりの何もなし。

 

やってきました例のアレ

 

やっぱり来ました、坐骨神経痛

痛みでガチ泣きしたよ…

まともに歩けないレベルでした。

 

 

二人目のときは犬印の『ながーく使えるマタニティベルト』を購入。どれだけながーく使えるかというと、今も腰が痛い時などに使っています。坐骨神経痛は10日くらい続いたかな。たった10日?て思われるかもしれないけど、歩こうとして足を地につける度にビキーンと痛み、寝返りをしても痛いのはかなり辛かった。

 

適当すぎる母子手帳

 

上の子のときは、誰に読まれるわけでもないのに、ですます調でビッシリと書き込んであった母子手帳。下の子のときは箇条書きか、妊娠4ヶ月の欄には、

 

特に何もなく元気に過ごした

 

と一行だけ書いてあった(笑)

 

ファミリアのあかちゃんブックは下の子にも用意したが、未だに完成していない。自治体のも産院のも、母親学級は行かず。長女のときは全て参加してハンコがおされてあるが、次女のは白紙。まあ、二人目ってこんなものかな。

 

住吉大社で安産祈願

 

一人目のときは中山寺へ行ったが、二人目は家から近い住吉大社で安産祈願をした。上の子の七五三、私の前厄・本厄の厄払い、子授け祈願を住吉大社でお願いしたので、それもあって住吉に。

 

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腹帯は岩田帯か腹巻タイプから選べた。私はM〜Lというサイズに少々不安を感じつつも普段使いやすい腹巻タイプにした。巨体の私でも臨月まで使えた。

 

 

完全に存在を忘れてたけど、こんな支えベルトみたいなのもついてたのね。それは全然使わなかった(笑)ちなみにこの腹帯、今でも普通に腹巻き代わりに使っている。臨月でも使えた腹帯がズレもせず使える私…

 

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これは私が撮ってあった写真だが、右側中央にある白い安産お守りは社務所で買えるお守りとは違い、安産祈願の祈祷を受けた人だけが貰えるものなので、上の木のお守りと、子授け祈願のときに貰った『種貸人形』だけを、お宮参りのときに返し、白のお守りは記念に置いてある。三角の紙の中には、石を入れておく。これも返したかな。忘れた。

 

腹帯は使わなくてもいいかなーと思っていたけど、この住吉大社で貰ったものと、洗い替えにもう一枚買った。

 

 

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こんな感じで箱に入っていた。この腹帯はホールド感をとても気に入って使っていた。というか、これも今も使っている。腰痛が酷いときに、犬印マタニティベルトと併用している。一人目のときはわけもわからず適当なやつ買ったけど、ワコール腹帯かなり良くて、たまに人に勧めてる(笑)

 

誰にも気づかれない妊娠後期

 

妊娠後期に入るとさすがにお腹が出てきて妊婦らしくなってくるものだが、元から巨体な私…身近な人からすら、妊娠していることに気づかれなかった。臨月まで何度も会っていた実家の隣の奥さんは『えっ?今臨月?』と驚いていたし、出産10日前くらいに四国から会いに来てくれた従兄とその息子は、私が夫と電話でベビーベッド組立ての話をしているのを聞き、

 

『誰のベビーベッド?』

 

とポカンとしていた。私があと10日で出産すると答えるとビックリしていた。他にも産後次女を抱いている私を見た近所の人などに『えっ?いつのまに?えっ?』と何人も言われ、『臨月にも会ってましたよー』と答えては驚かれた(笑)一人目のときは5ヶ月くらいから誰がどう見ても妊婦だったし、私のデカさ自体は一人目も二人目もそう変わらなかったのに、謎だった。

 

胎児ドックで熟睡

 

私が出産した病院では、28週とか30週くらいに希望者には『胎児ドック』があった。自費なんだけど、狭めのプラネタリウムみたいなお部屋で、胎児の様子をしっかり見てくれる。暗めの部屋の天井に赤ちゃんが映し出され、内臓とかもしっかり見てくれる。

 

が、あまりの心地よさに爆睡。

 

上の子のときは転院したのが30週くらいだったので胎児ドックは受けられなかったけど、これもいい思い出になった。寝てたけど。

 

思わぬトラブル…不安な年越し

 

妊娠後期、もうあと1ヶ月少々で出産というときに、なんと血糖値が高いということで再検査になった。年末スレスレの時期に、産婦人科ではなく家の近くの内科でソーダ飲む検査をしてもらうことに。

 

もう仕事納めぎりぎりに検査をしたので、結果がわからないまま、2017年を終えた。これがまあものすごい不安で、いろんなブログを読み漁っては、総合病院に転院した話を見て半泣きになった。そして年明けて2018年、

 

バリバリ妊娠糖尿病判明。

 

さすがに転院とかになるかもしれず、夫に病院についてきてもらった。もう憂鬱で憂鬱で、しかも胎児にも影響があるかもしれない病気。でも、転院にはならなかった。栄養指導を受けただけ。

 

お下がりを出す楽しみ

 

90%女の子ということがわかり、長女が使っていた衣類などを出すのも楽しかった。ただ、生まれた季節が全く違うので、何もかもお下がりで賄えるわけではなく、それなりに買い物も楽しんだ。望んで待ちに待った赤ちゃん、前記事に書いたようにもう産む日も決まってたし、臨月は短かったけど、のんびり楽しく過ごした。

 

 

そんなわけで、二度の妊娠生活は、色々あったといえばあったけれど、穏やかでとても幸せな日々だった。帝王切開を振り返ったら、何だか妊娠中のことも振り返りたくなったので、記憶の新しいうちに自己満的に書いてみました。