さて、前回の続き、アッシジ最終日夕食での事件を書く前に。
私はたった一人だけ、イタリア人の友達がいる。私は英語科の高校に通っていたが、英語の四技能と言われる『読む、書く、聞く、話す』において、『書く』が最も苦手で、試験の成績はめちゃくちゃ悪かった。
近所の英語スクールにも一瞬通ったが、読み書きのクラスよりも、コミュニケーションのクラスのほうがよっぽど楽しくてクラスを変わった。外国人の先生と喋るロビートークはタダだったこともあり、クラス以外でも先生と喋り、上達したのは結局元から得意な『聞く、話す』だった。あのコミュニケーションクラス、私以外皆社会人だったなぁ、今も近くにあるから、システムが同じなら通いたいくらい(笑)
今のように便利な時代ではなかったが、物を考えるのは得意なので、何とかしてこのクソカスなライティング能力を少しでも高める方法は…となったとき、思いついたのが海外にメル友(完全に死語)を作ることだった。
当時はメールでのペンパルを募集できるサイトがあり、捨てアドを取って友達を作った。
その中にいたのがイタリア人の友人ステファニアだった。研修旅行でイタリアに行くことをメールで報告すると、彼女は電話番号を教えてくれた。イタリアに着いたよ、今ミラノだよ、今フィレンツェにいるの、今はアッシジよ、ついにローマよ
『今、あなたの後ろにいるの』
と続きそうな怪談話メリーさんのような電話をかけては、彼女と話をしていた。イタリアの思い出のひとつが、彼女に電話をかけていたあの公衆電話。今もあるのだろうか。日本と同じく、少なくなってるのかな。まあ、このステファニアも、後編に登場する。
さて、アッシジ最終日の夕食のとき。
別れに際して、お世話になったシスターの皆さんが、とても美しい歌を披露してくれた。本当に素晴らしい歌声とメロディーで、皆感動の嵐だった。
これは私達からもお返ししなくちゃ!となり、あれこれと候補になりそうな日本の歌を出し合ってみたが、知らない子がいたり、『蛍の光』なんて案が出たが、いやあれ日本の歌じゃないし、とか話が全然まとまらなかった。候補は覚えてないけど、春が来たとか故郷とかそんなんだったと思う。
どんなところに泊まってどんなお世話をしてもらうかも全く知らずに行ったため、出発前なり移動のバス車内で歌を練習するとか、メッセージカードをつくるみたいなことはできなかった。
するとA先生が、『もう決まらないから歌はやめ。お礼をお伝えすることにして、早く食べてしまって』みたいなことを言い出した。
いや、あんな泣く子も出るほどの歌を、そりゃシスターの皆さんはこういう団体客を受け入れ慣れてるかもしれないけど、その晩は他の誰でもなく私達に贈ってくれたのに、こちらからは何もなし?
そりゃなくない?
と思った私。ふと思いついた。
唱歌じゃなくてもいいよね?
例えばだけど世代的に多分その場にいた全員が歌えたであろうセーラームーンのムーンライト伝説とか、極端な話そういうのでいいと。みんなで日本語で、楽しく歌ってお返しできたらいいなって。
でも、みんなで同じメロディーを歌うより、何かちょっとでも工夫のきく歌はないかと考えた。食事はいくつかのテーブルに分かれて座っていたので、私はまず同じテーブルの子達に、
君をのせて、知ってる?
と聞いた。
そう、ジブリ映画『天空の城ラピュタ』の歌である。私のテーブルにいた子は皆が知っていた。隣のテーブルの子達にも聞いてみる。
『あれ、いいね!』
『1番だけなら』
『歌詞があったら』
そんな感じにテーブルからテーブルへ伝えていき、確か一年生の子が紙に歌詞を書いたような気がする。覚えてないだけで、知らない子もいたかもしれない。もうこれだけ前だと記憶も曖昧だから、全員が歌ったかはわからないが、とにかく『君をのせて』を歌うことで話がまとまった。これを逃したら話はまとまらないし、夕食の時間も終わる…こいつの提案に乗ろう!と思ってくれた人もいたと思う。
前へ出たのか、その場に立ったのか忘れたが、『私達からも日本の歌を歌わせてください』と、
超!即席君をのせて合唱
をすることになったのだ。
私が小学校6年の頃、音楽の授業でこの『君をのせて』を習った私は、そのときに担任だったピアノのとても上手な先生から教わったアルトパートを歌うと申し出た。
そう、一人でアルト。
皆はメインメロディーを歌ってくれたらいい。ちょっとでも、合唱っぽくなるからと。ここまで激長く12年も前のことを書ける私、今より断然若い20歳のときに小6で習った歌ぐらい余裕で覚えていた。
最初からハモるアレンジもあるが、小学生向けの合唱編曲だったのか、出だしは一緒に歌い、私ひとりのアルトが登場するのは、
『さあ 出かけよう 一切れのパン』
のところから。
歌を文字にすると難しいが、
こんな感じになる。
ピンクがソプラノ(メロディーパート)
紫がアルト(ハモり)とする↓
さあでーかけーよーう
さーあ〜 でかけーーよう
ひとき〜れのーパーンー
ひーとーきれのーーーパン
とズレてというか、追いかけるようにして歌うのだ。つまり、私のような声デカ人間でなくても、メインメロディーを歌うソプラノが20人超えに対して私一人がアルトになっても、なんとなく『それっぽく』なる。
『ナイフ ランプ 鞄に詰め込んで』
のところのアルトはなぜか、
つーめーこーんでー つめこーんでー
と、二回詰め込んでいる。
そしてサビ、
父さんが残した熱い思い
母さんがくれたあの眼差し
のところは同時に歌うが、これも微妙に音がズレているので、ソプラノが『あつーいおーもーいー』と歌っているときに私は全然違う音で
あつぅい おぉもぉいーいいー
というような、文字にしてもやっぱり訳わからないがそんな感じに歌う。そして、本来はその後の『地球は回る君を隠して 輝く瞳 きらめくともし火』のところは、私の小学校バージョンでは、ソプラノはウーウーだかルールーだか歌ってアルトにメインメロディーが回ってくるのだが、ちょいちょいソプラノが『歌詞にない追いかけ』をやる。
地球はまーわーるー まわる〜
きみを隠して〜 隠して〜
ただ、このときは私以外の全員がメインメロディーを歌っているので、『ルールールールー まわる〜』は私が担当しなければならない。だが、私はウ段の音が下手なので、勝手に
ア〜
に変えて、大きな声が出やすいようにして、無事、君をのせての合唱は、シスターの皆さんの大きな拍手に包まれて、終えることができた。
シスターの一人が、
『どういう意味なの?』
と聞いてくれたので、私が必死になって訳していた。いや、君を『のせて?』何それ?とか思ったが、何とか伝えようと英語で話した。
すると、
『そんな言い方はないですよ』
と言う人が。
A先生だった。
何とも機嫌の悪そうな顔をして、じゃあ正しい英語はこうですよと教えてくれるでもなく、私の英語の拙さを鼻で笑うような言い方で。シスターへのお礼の歌を決め、一人アルトを担当して、意味を聞かれて答えている学生の私に、何とも意地の悪いことを言うのだ。
旅行中の食べ物のことといい、フィレンツェのクーポラ464段の階段昇降を拒否したことといい、彼女の思うようにならず、意見を言う私をだいぶ気に入らなく感じていたらしい彼女。
まあ、軽く無視して
シスターと写真を撮ったり、別れを惜しんだり、『キミヲノセテ?』と曲名を私に聞いて改めて皆の歌を賞賛してくれるシスターもいたりして、食堂を出て部屋に戻るとき、
A先生に呼び止められた。
『あんな歌を用意していたなら、知らせてくださったらよかったのに』
まあ、これもミッキーマウスのようにハハッと笑ってこっちも新成人一年目のガキなので何を言ったかは忘れたが嫌味を返し、唱歌では決まらなかったから食事のときに皆で話し合って決めただけだと言って部屋に帰った。ていうか、同じ場所にいたんだから、君をのせてに決まるプロセス見てなかったんかいな。
そして今にいたるまで、
実はただの一度も、
『天空の城ラピュタ』を
見たことがない私。
ジブリで見たことあるのって、となりのトトロ、魔女の宅急便、千と千尋の神隠しぐらいかな。みんなでテンション上げて『あるこ〜あるこ〜私は〜げんきー♪』とか歌っても全員が知ってたかな。要するにほんと、何でもよかった、大事なのは、気持ちだと思う。
そして、迷子になったり、歌を歌って嫌味を言われたりしたアッシジ旅行は終わり、研修旅行の最後の地、ローマへ。
アッシジとローマの途中でどこか寄ったけど忘れたな。正直、どなた様…?てなる、A先生の知り合いのおじさんの家みたいなとこだった。食事を出してもらって、バイバーイ。何か、お金は払ったんだろうけどタカリに行ったみたいな感じだった。
さて、ローマに到着。
(↑さすがの?私もここだけは上がった。サン・ピエトロ大聖堂のクーポラから見た広場。社会の教科書で見たこの景色を肉眼で見て写真撮りたくて)
これまたミラノのドゥオーモに続いてバリバリ工事中だったコロッセオをバスで素通りし、フォロ・ロマーノとかいうのは降りて見学したっけな。
確か小学校低学年くらいの頃に映画『ローマの休日』を見たことはあったが、何となく見ていただけで全然覚えてないし、永遠の都ローマへ行き、トレヴィの泉にも、真実の口も、スペイン広場にも行かないこの宗教研修…ほんと、色々ともったいない。
ローマでも修道院に泊まったが、アッシジの修道院とは違い、ホテルとそう変わらないようなところ。ていうかほぼホテル。今度は迷いようもない、バチカンのサンピエトロ広場の目の前というロケーション。
ローマでの最初の夜は、自由時間があった。でも、近場でサンドイッチでも調達して宿泊先の修道院へ戻れというA先生。
サンドイッチ好き過ぎやろ
まあ、20人以上のお嬢様方(私以外)をあまり出歩かせたくないというのもわかるけど、
食べたいのよこっちは
ということで、これまで一切登場していないが、旅のあいだずっと私とニコイチでいてくれたCちゃん(あ、先生をAとBにしたからCにしただけであって、イニシャルではありません)
と外食に出かけることにした。
でも、バチカンの周りは何だか暗くて、うちの地元の近所の治安激悪い某所を思わせるような…。しかも、お店もあまりなかったり、閉まってたり。困った私は、メル友ステファニアに電話することに。
『ステファニア、ついにローマに来たよ。あのね、教えてほしいんだけど、今日ってイタリアは休日か何か?夕食を食べるお店を探してるんだけど、閉まってるお店が多くて』
『うーん、ローマは遠いからよくわからないけど、そんなお店が閉まるような休日ではないと思う』
『じゃあ探してみる。あ、夕食ってどんなお店を選べばいいかな?すごく高いとか、そういうのじゃなくて、私達でも食べられそうな』
『トラットリアって書いてあるようなところがいいんじゃないかな、ディナーでもそんなに高くないと思う。でもバチカンのそばだと、それなりにするかもしれないけど』
こんなやりとりをして、私はステファニアに教えられた通り、trattorìaの看板のあるお店を見つけて入ることに。真昼間で人通りの多かったフィレンツェのときと違い、少々怖い気持ちもあったが、先客が何組かいたし、(今写真を見たら)店頭にメニューと価格が書かれていたので、そこに入ることにしたのだと思う。
『マズかったらごめんね』
と言って、お店に入った。
このとき、Cちゃんの他に、同じ学科の子Dさんも『私も一緒に行っていい?一回くらいお店で食べたいから』と三人で行くことに。Dさんはここまで、きっと食事はA先生の言う通りにしてきたのだろう。
店に入り、多分私が注文したと思うんだけど、飲み物と元からついてるパン、そして三人とも
ローストビーフを注文
何でそうなったのかわからない。メニューがイタリア語だったのか、英語が通じなかったのか、全員本気で肉が食べたかったのか…何か理由があったんだろうと思う。人生でそうそうない、永遠の都ローマでのディナー、若い女三人で行けば別々のものを頼んで分け合ったりしそうだけどね。
というわけで、ローストビーフ登場。
でかい!
まさかこんなデカイものが出てくると思わなかったが、ソースもローストビーフも美味しくて、三人で美味しいと言いながら食べたように思う。大食いの私は勿論だが、三人とも残さず食べた。確かDさんも、一緒に来て良かったと言ってくれたかな。
食事を楽しんでいたそのとき、
私達のテーブルにお花が置かれた。
『無視して!』
咄嗟に、私が二人にそう言ったと思う。
人で溢れかえったミラノやフィレンツェのドゥオーモ近辺で『民芸品の押し売り』みたいなのもあったし、外からフラッと店に入ってきたその花売りの男性を、
客も店員も完全に存在をスルー
というのがおかしい。
お客さんではないと考えるべきだろう。
これは、受け取ったが最後絶対に返せず、少額であれ金銭を要求される、よくあるやつだと思った。三人でスルーを決め込んだため、諦めたのか花売り男さんは出て行った。別に少額払って済むならいいけど、嫌な思い出は作りたくないし、少額じゃない場合もあると後で知ってビビった。
大満足で巨大ローストビーフを完食し、『玄関開けたら目の前バチカン』の修道院まで暗い道を歩いていたら、少し年上か同世代くらいかな、という日本人男性二人に遭遇した。
『日本の子だよね?どこから?』
『◯◯です』
『そうか、夜危ないから気をつけてね』
とか声をかけてもらった。
全く顔は覚えていないが、何か嬉しかった。
記憶の中で
勝手にイケメンにしてある
さて、ローマ観光はほぼバチカンだった。
バチカン美術館、朝のミサもサン・ピエトロ大聖堂、枢機卿訪問…とバチカンにずっといた。
確か、枢機卿訪問が最初だったかな。
この枢機卿訪問というのが、当時日本人枢機卿は濱尾さんという方がおられて、どういうツテでかその方が時間を作ってくださって、バチカン市国内に入って皆で会える…という、なかなかに貴重な機会だった。ちなみに、濱尾さんのお兄さんは、今の天皇陛下が子供の頃に東宮侍従として養育に関わった濱尾実さんだ。
カラフルな服を着て槍みたいなのを持っているスイス衛兵もアポを知っているのか通してくれて、私達は枢機卿やローマ教皇が暮らすバチカン市国内に入り、会議室のようなところで濱尾枢機卿の話を聞いた。正直、内容は全く覚えていない。ただ、普通なら覚えているはずなのだが、その後のことがインパクト強すぎて、記憶の上書きみたいになったのだと思う。
私達を歓迎し、いろんなお話を聞かせてくれた濱尾枢機卿。さてそろそろお開きかなというとき、
『何か質問はありますか?』
みたいな質問タイムが突然やってきた。
一瞬しーん…となって、皆互いの様子を伺うような感じで、どうするどうする?みたいな雰囲気が会議室に漂った。すると、もうどの子が質問したかも忘れたが、一年生の子がこんな質問をした。
『バチカン内のスーパーって、何を売っているんですか?』
1秒くらい、濱尾枢機卿がフリーズなさったように思う。確かに、今も唯一覚えているとすれば、お話の中に『バチカンの中にもスーパーマーケットがある』という話だ。その子が質問したから覚えているだけだが。
その子はそれを聞いていて、あの質問したんだと思う。別にその子もバチカンのスーパーに何が置いてあろうとどうでもよかっただろうけど、あの雰囲気の中、何か質問しなくちゃと思ったんじゃないかな。
『あ、ああ、まあ何でもありますよ。ローマ市内の普通のスーパーと同じようなものと思います』
という想定内過ぎるお答えで終了した。
私はチラリとA先生の顔を見た。貼ってつけたような笑顔の奥に『誰かまともな質問をしろ』というオーラを感じた。アッシジの歌のときあんな嫌味を言われたし、ローストビーフ食べに行ったのも気に入らなかったみたいだったが、助けてあげよっかなー
…とか思ったり思わなかったりした(笑)というのは半分以上冗談で、実際の当時の私は、こんな25人だかで会ってもらって、話聞かせてもらって、スーパーに何売ってますかだけ聞いて帰る団体じゃいけないみたいな、妙な正義感みたいなものが私の中に沸き起こった。
いや、スーパーの質問した子、悪くないよ。ていうか、言った本人も12年も経ったら忘れてると思うわ。でも、あの何とも言えない、重いような、まるで皆の戸惑いが空中に見えそうな、あんな空気の中発言したのはむしろえらい。私なんて、正義感がなんたらとか書いてるけど、最初に口を開いた彼女の二番煎じなんだから。
でも私は考えた。考えたけど…
枢機卿に聞きたいこと??
ハッと思いつき、質問することにした。
喋りには自信があるので、手を挙げたか何かして、質問させてもらった。会議室にいる全員の視線が私に集まる。スーパーの売り物の次は何だ?この大して学校にも来ない頭の悪そうな奴は何の質問をするんだ?神様って本当にいるんですかぁ?とか聞かないよね?……特に私をよく知る同級生にはそう思われただろうか。そのときのA先生の顔は見なかったが、『しょうもないこと言ったらわかってんだろうな』と内心思っていたに違いない。どうぞとか何か濱尾枢機卿に促され、二番煎じの私、口を開いた。
全文覚えていないがこんな感じ。
『はい、昨年のコンクラーベで新しい教皇様が選出されたときは、日本でもニュースなどで大きく取り上げられました。枢機卿様はそのコンクラーベの場にいらっしゃったと伺いましたが、そのときにお心に残ったことがありましたら、お教え頂けますか』
ナイスリカバー!
食べることしか頭にないデブ方向音痴、
12年も昔のことだし自画自賛させてほしい
ナイスリカバー!
今度は全くフリーズすることもなく、これまた内容は忘れたが、それこそニュースでは聞くことのなかった、二日目の投票前にもうこの人で決まりっぽいなみたいな雰囲気があって、選出されたら名前は何にするかみたいなことを聞かれてたとか、教皇様は猫がお好きでね、とか、コンクラーベのことや当時のローマ教皇ベネディクト16世について教えてくださった。
(ちなみに『枢機卿さま』と様づけで呼んでいたのはA先生だったので、私もそれに倣い、枢機卿様と呼んだ)
ふう…と一安心して、A先生を再びチラ見すると、こっちを向いて頷いている。あら、私が何をしてもご不満でいらしたのに、今回は満足そうでいらっしゃるわね…と思ったが正直私もワキ汗をかくくらいだった。ちょうどベネディクト16世就任直後くらいで、実際に教皇決定のニュースを見ていたからできた質問だった。その前だったら、
『コンクラーベって何?根比べ?』
と冗談抜きでそんな感じだったと思う。
コンクラーベで投票権を持つのは枢機卿で、教皇が決まったら煙突から白い煙が上がってどうのこうのとかをたまたま知っていたから助かった。
(↑この写真は、サン・ピエトロ大聖堂の真裏側。何気なく撮ったけど、濱尾枢機卿を訪問させてもらったからこそ撮れた、バチカン側からの地味にレアな写真)
その翌日は、バチカン美術館見学。
バチカン美術館に入るには、鬼のように長い行列に並ばなければならない。美術館内に入ったらまた並んで絵葉書を買って、バチカンの消印が押される葉書をそれぞれ自宅に送った。先日それが実家から発見されたが、激謎なテンションで書かれていて昔の自分に本気で引いた。
そして、見学開始。
このとき最初から、お昼ごはんを美術館内のカフェテリアで食べたら自由見学、自由時間。再集合は何時にサン・ピエトロ広場のオベリスクのところとA先生が言っていた。
『ラファエロの何とかはぜひ見てくださいね』
みたいなことを言われていたが、コンクラーベが行われるシスティーナ礼拝堂にある有名なミケランジェロ作のフレスコ画『最後の審判』を見たらもう満足した私。
ラファエロの何とかなんて目もくれず、ニコイチ行動をしていたCちゃんとバチカン美術館を出て、目の前のタクシー乗り場へ向かった。
これも記憶が曖昧で、どの時点で自由時間のことを決めたのかを忘れてしまったが、上にも書いたように
『ローマに来たのに、トレヴィの泉もスペイン広場も真実の口も、どれひとつ見ずに帰るとかありえない』
ということで、この自由時間を使ってトレヴィの泉に行くことにしたのだった。タクシー乗り場で、先頭から一台ずつ『英語はできますか?』と聞いていき、5台目くらいの運転手さんが『少しなら』と答えたので、そのタクシーに乗った。
乗った後か乗る前かは忘れたが、ここからトレヴィの泉までは何分くらいですか?と聞いた。
『15分くらいだよ』
よし、行こう!
私達二人は心踊らせつつも、内心本当なのか、詐欺られはしないか、変なところへ連れて行かれないか、ボッタクられないかとか思っていたが、あっさりと着いた。運転手さん、疑ってごめんなさい。
道に降りて、なぜか走ってトレヴィの泉へ向かい、ズバァァァァンと現れたあの有名過ぎる世界的観光スポット…来ることができるとは思っていなかった、この目で見ることが叶うとは思っていなかったトレヴィの泉に
大興奮(笑)
写真を撮りまくり、ローマの休日を気取ったつもりでイタリアンジェラートを買って食べたが…
日本へ帰ってから、
『ジェラート食べるのスペイン広場やん』
と気づいた。
そして、『トレヴィの泉にコインを投げ入れるとローマ再訪の願いが叶う』という言い伝えがあるので、私達もコインを投げ入れた。
真正面を向いて。
行くことだけで必死で、何も調べてないし、周りは目に入ってないしで、上の『 』の文章にひとつ足りない項目があることを、私は全くわかっていなかった。
『トレヴィの泉に後ろ向きでコインを投げ入れるとローマ再訪の願いが叶う』のである。…バリバリ真正面向いて普通に投げてたわ…私達…
このせいか、今のところ
ローマ再訪は叶っていない。
このときはトレヴィの泉とイタリアンジェラートにテンションが上がり、スーパーを発見して飛び込んで(私は)食料品を買い込み、集合時間に間に合うようにまたタクシーに乗ってサン・ピエトロ広場に戻った。
私達があんなにドキドキして、本当に15分で着くのだろうかと思っていた疑問は、今の時代はスマホでググれば秒で解決する。
日本語で打ち込んだらコレ。
便利過ぎる…あかんレベルに便利。
私達だって、ローマで自由行動が丸一日とかあれば、ガイドブックのひとつも持って行ったけど、自由行動ほぼほぼないと分かってて、持って行くわけないもん、指くわえて見てるだけのガイドブック、持って行くほうが切ないわ。
帰って集合場所に走って行くと、
『姿を見かけなかったけど何してたの?』
と聞かれた。誰に聞かれたのかは忘れたし、息せききって走ってきたから、どうしたの?と思われたのかもしれない。
『トレヴィの泉行ってた!』
…今だったら言わない。でも当時はまだ若い二十歳の女の子だったから許してほしい。たった今見てきたトレヴィの泉の興奮さめやらず、つい言ってしまったのだ。
いや、自由時間は自由時間だし、バチカン美術館やサン・ピエトロ広場から出るなとか言われてたわけでもないし、ルール違反ではない。当然A先生にもバレて不満そうにされたし、周りのみんなだって、有名観光地のひとつくらい行きたかっただろう。そこは黙っておくのが大人というものだ。
『ねー、会わなかったねー』
とか、適当に話を合わせておけばよいものを。口々に上がる、私も行きたかったーの声。いやさすがに、この研修で初めて会った一年生とかには声かけないよ…
研修旅行最終日の夜くらい、皆で外で食事しましょというA先生の発案で、少々ボッタクリ価格のバールっぽいとこでみんなで夕食を食べた。
私はいつもなら人並みはずれて食べるのだけど、部屋にスーパーで買った生ハムや、タコのオリーブオイル和えとか色々あるから少なめにしとこ!と、こんなディナーでローマを締めくくった。ボッタクられたはずだが安くついた。
イタリア滞在中に気に入って何度か食べていたマチェドニアとかいうフルーツポンチみたいなのと、ヨーグルト。今、このシートに書いてある名前『MORRETO バチカン』で検索してみたら、グーグルの口コミの星1.7(笑)翻訳された言葉でわけわからない文章だったが、とにかくマズイ上にボッタクリ価格、と書いてあった。しかも、口コミの一番上に来てたのはわずか6日前に書かれたもので、『絶対に行かないでください』と書いてあった。
それより…
12年経ってもまだやってることに驚いた。
何かみんな、旅の疲れもあるし、枢機卿訪問のピンと張りつめた空気とはまた違う、ここ…ボッタクリじゃない?みたいな雰囲気。でも、お嬢様方は誰もそれを口に出さず、でも多分全員心の中で、『最後の夜なんだからむしろ自由行動にしてくれよ、皆での夕食ってアッシジでは毎晩みんなで食べてただろ、で、何この店?』と思っていただろう。
Cちゃんと私は、『初日のローストビーフのお店、先生に言ったほうがよかったかな?』と囁き合った。
モレット?とやらはA先生が選んだお店だったけど、それにしてもA先生…旅行の引率には向いてないと思う。私が勝手にディズニーランドにおけるフジモン認定しているB先生ならどうしたか知らないが、B先生が引率で行った翌々年の宗教研修では、こんなことは多分起こっていない。どこへ行っても、あの独特の語り口であれこれ教えてくださったことと思う。
A先生がアッシジの修道院はこんなところだよ、と教えてくれていたら私達もお礼の準備くらいしたし、最終日はローマで全員揃って夕食と言うなら、25人だかが入れるちゃんとしたお店を調べておくくらいはしてもいいと思う。それが無理なら、たとえば…泊まってるほぼホテルだよね?な修道院で、私が買ったみたいなデリのお惣菜とかを何品か買い込んでのパーティーでも、ボッタクリかつマズイ店で不満も口にできずお通夜状態でローマ最後の夜を過ごすよりは百万倍マシだ。
私の迷子もそう。もちろん私の自己責任ではあるが、A先生がメイン引率なら、あの平和なアッシジでも、どこかからの帰りは最後まで残るなり点呼を取るなりしていれば、『優秀な方向音痴デブ』の私が発生することもなかった。
(ちなみに先生と呼ばれる人はA先生の他に女性2人いたが、私達学生と同じく参加者の扱いだった)
『みんな私の言うこと聞いてりゃいいのよ、食事付きじゃない日はサンドイッチ買って、自由時間でも美術館見てりゃいいのよ。みんなが知らないならもう歌うのやめりゃいいのよ』
みたいなやり方で、20人超えの女子大生がよくついて行ったものだと思う。それは、私以外が育ちのよい良家のお嬢さん方だったからできたことで、そうじゃなくて皆が皆私みたいな集団なら、不満が爆発していたはずだ。あ、ちなみに今更だがA先生は女性、B先生は男性である。
そして、このあたりはもう記憶が曖昧すぎるので半分フィクションと思ってもらいたいが、フィウミツィーノ空港からの帰りから、旅行その後の話。
最後に公衆電話からステファニアに電話をして、日本に帰るよ〜
アリーヴェデルチ
(私の渾身の舌巻きアリーヴェデルチにステファニアはめちゃ笑いながらも、英語ではなく彼女も『オー!アリーヴェデルチ!』と返してくれた)
とこれもイタリアが舞台のジョジョ5部に登場するブチャラティのような台詞を言って別れ、帰ってからまたお礼のメールを送った。
彼女からは、
『あなたがミラノ、フィレンツェ、アッシジ、ローマとたった数日のあいだに移動していくのを聞いていておもしろかった。メールだけじゃなく、声が聞けて嬉しかった。イタリアを好きになってくれた?』
というような返信が届いていた。
そして…
機上の人となった私はそういえばこんなの持ってきたなぁ、暇がなくて読んでないけど…と2冊の小説を取り出した。
(発売日は2014年になっているが、合体本ということで、私が持っていたのはこれではない)
大流行したダ・ヴィンチ・コードと同じ作者ダン・ブラウンの小説、『天使と悪魔』文庫版上下巻を飛行機の暇潰し用にと持って行ったのだ。
小説の舞台はイタリア、ローマ、バチカン。
舞台は、
イタリア、
ローマ、
バチカン。
もう泣ける。何で帰りに読む?
せめて行きに読めよ…
アホだろ…アホすぎるだろ…
ちなみにダ・ヴィンチ・コードも読んだが、天使と悪魔のほうが格段におもしろく、日本に帰ってB先生の研究室に持って行き、『これ面白いから読んでください』と言うと、『なかなか返せないかもしれないけどいいか』と聞かれ、私はもう読んだので差し上げます、と答えた。
ところがキリスト教が専門で、私達に聖書や宗教芸術の講義をしてくれていたB先生もおもしろいと思ったらしく、一気読みしたそうだ。映画化もされ、地上波放送もあったので、私は映画版も見たが、ラストが『ヘ?』みたいな終わり方だった。是非とも小説版をお勧めしたい。
激高い旅費諸々を親に出してもらって行ってはみたが、正直何だったのかよくわからないイタリア宗教研修旅行…もちろん楽しかったし一生忘れることのない良き思い出だが、
なんと、とあることで旅費が全額以上戻ってくることとなった。
私はこの研修旅行のことを書いて、とある大会に出品・出場したところ、そこで、優勝。そして、その大会実績をもとに、賞金が出る…うーん、身バレせずに書くとすると何て書けばいいんだろうか?
『何かを頑張った大学生にお金あげますよ』
という事業に応募したら…
まさかの一番上の賞に選ばれ、
賞金50万円を獲得!
で、その賞金は、
宗教研修の旅費をポンと出してくれた親に…
3万だけあげて、
残りは沖縄ひとり旅諸々で散財
という、馬鹿娘な私なのでした。
逆だろ
親に47万渡せよ!
…と今更思っても遅いが。
ごめんなさい。
この旅行の話は、12年も前、今32歳の私が20歳のときの話。日本もイタリアも、そしてこの世界のいろいろなことが、変わりまくっているだろう。
でも流行の発信地ミラノや花の都フィレンツェ、世界遺産の街アッシジ、そして永遠の都ローマにある数々の芸術作品や建造物は、今もそのまま、変わることなくそこにあり続けていると思う。
↑この思い出の公衆電話も、
今の時代なら使っていなかっただろうな。
まず今の私はスマホを持たないで、海外どころかすぐそこのコンビニにも行きたくない。まあ、それは小さい子供の母になり、二十歳の頃の旅行と今の日常とでは事情そのものが違うというのが大きいけど。
iPhoneも何も、あの頃はなかったんだから仕方がない。迷子になったら公衆電話、レストランに入るのもタクシー乗るのもビビりながら、Google翻訳もあるわけないから通じなくても必死で英語を喋り…
でも、私は思うのだ。
それも楽しさのひとつだったんじゃないかなって。だってスマホだとか今では当たり前のものが当時はないんだから、不便とも思っていなかった。もちろん便利になった今の時代の快適さを、昔を思い出して噛みしめながら旅行もしてみたいけどね。
ということで、何で今更?と誰もが思うであろう、12年前のイタリア旅行の話でした(笑)