眠れぬ夜のひとりごと。

タイトル通り、眠れない夜の暇潰しにやってます。半分寝てて誤字多いです。

サンカククリップの話。

私が毎日のように使っているサンカククリップ。一時期、ものすごい大ブームになったsAnのヘアアクセサリーだ。本当に入手困難で、百貨店などでのポップアップショップには早朝から長蛇の列ができ、整理券制だったり、抽選販売になることもあった。

 

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(この定番カラーのうち、真ん中のネイビー、その両隣の赤とターコイズを持っている)

 

超絶入手困難だったころからすれば、今はブームはある程度落ち着き、オンラインストアで普通に買えるまでになったが、初めの頃はなかなか手に入らず、やっと買えたときは感激したものだった。このときに買ったのは、どこかのお店とのコラボ商品で、バレッタ二個がセットになっているものだったので…高くついたが(笑)

 

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(↑初入手のサンカククリップ。

ハムみたいでなんか可愛い❤️)

 

まず、サンカククリップの存在を知ったのは、輸入子供服を扱うお店のセールに行ったときだった。小さな店舗の前に物凄い列ができていて、え?入場待ち?と思って、とりあえず並んだ。折り畳み椅子持参で来ている人や、始発で来た人もいるという。え?そんな人気なの?ここのセール…と思っていたら、前に並んでいた人との会話の中で、それは子供服セール入店待ちではなく、sAnのサンカククリップ購入の行列で、子供服セールに来た人は並ばなくてよいと判明。どうやら、そのお店でポップアップショップをしていたらしい。

 

何も知らず、行列に無意味に並んでしまったが、親切な人に教えてもらった通り、列の先頭まで行くと普通に入店できた。お店に入るときにサンカククリップを見たが、

 

『三角の髪留めやん』

 

と思った記憶がある。

 

これ、こんなに並んで買うほどのものなの?と思いつつ、買い物を終えて帰る頃、ふつふつと

 

あれ欲しい!

 

…という気持ちに(笑)

でも、さすがにあれだけ並んでいれば当然子供服屋さんでは普通に売り切れているので、

 

並べばよかったー!!

 

と後悔した。

 

そこからサンカククリップ複数入手までの道のりは長かった。そして、ものすごく大変だった。基本的には百貨店などでの期間限定ショップでの販売だったのだが、瞬殺でまず買えないのはわかっていたので最初は参戦せず。いつか落ち着けば買えるだろうし…とオンライン販売をするいくつかのお店の在庫状況とにらめっこする日々だったが、

 

出た瞬間に瞬殺…

 

まあ、1個手に入っただけでもいいか…

そう思い始めていたとき、

これは絶対欲しい!

と思うカラーが出たのだ。

 

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ピンク!

 

これは欲しい!お菓子屋さんとのコラボカラーで、京都伊勢丹でのポップアップショップ。整理券が配られることを知り、この出不精のデブの私、販売初日に始発で京都駅を目指し、朝から並んで整理券を貰い、駅前の地下街で時間を潰し、再集合の時間に百貨店に戻って無事購入!!

 

…ちなみにピンクサンカククリップ、最終日まで残ってた。

 

お菓子とセットで買うことになっていて、帰って食べたらそのお菓子もめちゃくちゃ美味しくて、京都まで行ったんだからとデパ地下のお土産コーナーであれこれ買って帰った。

 

次に行ったのは、自宅から近いショッピングモールのポップアップショップ。自転車で行けるので朝の5時台から行って、2番目か3番目に並んだ。このときはそのショッピングモールとのコラボクリップと、一番上に載せたレギュラーカラーが両方買えるチャンスだった。

 

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ちなみにこのとき、妊娠初期だった。並ぶのにも慣れたので、簡易椅子を持って参戦。涼しげなカラーがとても可愛らしく、でも本命は定番カラーのネイビー。これも柄の出方をじっくり見て、やっと最初からいちばん欲しかった色をゲット!コラボのブルー、全然つけてないな。なんか突然カチンって壊れたし💦

 

ヘアクリップの他にも、バレッタやイヤリングなど色々なアクリル製アクセサリーが並び、それらは比較的簡単に買える。サンカクバレッタとかギザギザバレッタとかジグザグバレッタ、バーバレッタなど色々持っている。

 

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これもどこかのショップとの限定コラボカラーで、幼児教室の帰りに子連れで買いに行ったピンクのジグザグバレッタ。後ろ姿の女の子は、当時3歳だった私の娘。自分にLサイズ、娘にSサイズを買った。

 

私はピンクが大好きだが、sAnのカラーでは特にアイボリーの色が好きで、ジグザグバレッタ、バーバレッタ、ギザギザバレッタ(娘用)などアイボリーをたくさん持っている。

 

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(↑アイボリー多め)

 

左上の小さなサンカククリップは娘用のSサイズ。私がネイビーを持っていて、ジグザグバレッタもお揃いのアイボリー。星型みたいなのはギザギザバレッタ。子供さんにも人気のバレッタだそうです。

 

巨体で服お揃いは無理なので

 

ヘアアクセサリーでお揃いにしたり(笑)

 

そして、右上に写っているのは、

『サジェステ』

というもの。これも便利!

アゴムが隠れるし、どことなく和風?

 

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でもやっぱり使うのは、ガシッ!と留められるヘアクリップ。今はかなり長い髪なので、かなり上にポニーテールで結んで、そこにサンカククリップをつけるのが定番化している。それか、結んでいない髪をくるくると巻いて上にあげ、そのままクリップで留めたり。とにかく便利。

 

先日はオンラインストアで、サンカククリップ定番カラーのターコイズと赤を買った。ついでに、雲の形のクラウドクリップも(笑)ちなみにこれ、何かのドラマで石原さとみがつけていたとか。石原さとみと同じ人間なのかどうかすら怪しい私も、三角以外も買ってみようと思っただけで、

 

石原さとみを目指したわけではありません(笑)

 

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サンカククリップはハムピンク、お菓子屋さんコラボマーブルピンク、定番ネイビー、ショッピングモールとのコラボ水色の4つで満足していたのだが、何と…

 

全部破損してしまった。

 

枕元に置いてて踏んだとか、開き過ぎてカチッと金具が取れたとかで、見事に4つとも壊してしまった…。

 

でも、大丈夫。

 

修理サービスがある!

 

送料だけ負担すれば、金具の破損は直してくれる。アクリル部分が割れた場合は無理らしいけど、どれも思い入れのあるクリップだったので、直してもらえてよかった。

 

最近趣味がないなー、あんなに好きだった化粧も面倒でしかなくなったし…と思っていたが、サンカククリップ収集が今の趣味みたいなもの。収集するだけでなく、毎日使う実用品。髪の下のほうにつけたりするアレンジもよく見るけど、私はほぼ上でガシッ専門(笑)

 

次はべっ甲かホワイトか…

まだまだ集めたいと思っている。

 

もともと色は淡色が好きなのだけど、これから秋冬なので、濃い赤やターコイズを使っていこうかな。バレッタもうまく使えるようになりたい!朝ドラ『なつぞら』でバレッタを見るたびに思う(笑)

 

お菓子屋さんコラボのピンクマーブル、

定番化してほしいなぁ〜

 

収集中&日常使い中の、

sAnヘアクリップのお話でした。

 

 

マタニティライフの話 二人目編

マタニティーライフ、下の子編。

 

まだ二年も経っていないので、記憶に新しく、上の子のときにはなかった経験も多いので、こちらのほうが長くなってしまった(笑)

 

私は、四学年差のきょうだいを希望していた。4歳になっていれば、着替えや排泄、食事もある程度自分でできるだろうし、おむつも取れている。言葉のコミュニケーションもできるし、私にはちょうどいいかな、と2017年度生まれの赤ちゃんを迎えたいなと思っていた。

 

不妊治療からのスタート

 

早く授かれればいいなと、早速病院へ。ホルモン値か何かの検査をすると、見事にあれこれ引っかかり、ショックを受けた。第二子妊娠までの道のりは、約8ヶ月に及んだ。

 

では、下の子の話は妊娠前からのスタートとしたい。記憶も新しいしね(笑)

 

まず訪ねたのは、先生の説明が穏やかでわかりやすく、自宅からも電車で15分ほどのところにある小さな産婦人科。上の子のときは何度かここで4Dエコーをしてもらったり、周りの人にも勧めて好評だったクリニック。

 

ここでわかったのは、まず高プロラクチン血症。プロラクチンの値が高く、服薬を勧められた。プロラクチンの値が高いと、排卵が抑制されてしまい、妊娠しにくくなると説明を受けた。もっとしっかりした説明だったけど、忘れてしまった。

 

そこで私は、家からほど近い商業施設の中にあるメディカルビルに入っている不妊治療専門クリニックに転院した。でも、先生とも医療方針ともあまり合わず。ネットで良さそうな不妊治療医院を見つけたので、初診予約待ちをして、そこへ通い始めた。

 

排卵誘発剤クロミッドを服用したり、何度も卵胞の大きさ計測に通ったり、筋肉注射をしたり、卵管造影検査をしたり、卵管が狭いから手術を勧められたり、プロラクチンが高くなり脳神経外科を紹介されたり、甲状腺の値がよくないから専門医を訪ねるように言われたり…色々あった。

 

さてさてやっとここから。

 

念願の妊娠判明

 

16年12月に受けた卵管造影後、翌1月に妊娠するも流産。流産でショックな上に、卵管造影後妊娠しやすくなるという期間も過ぎていく…でも、私の体質だけはうまくできていて、あんなにプロラクチンか何かの影響で生理周期が長いのに、産後や流産後の月経再開は早かった。

 

そのため、その翌月から治療再開。

 

クロミッドを飲んでも私が14日目に排卵しかけなわけなんてないのに、『まだですねー◯日後に見せに来てください』にちょっとイラついていた頃。三度目のエコーで排卵しかけの卵胞があるとのこと。排卵させる筋肉注射を打ち、『エコーの保険は月3回までなので、次回は自費になります。排卵確認にきてください』と言われた。

 

行かなかった。

 

自費が痛いからだけではなく、エコー検査をして『排卵していますね』となったとしても、妊娠成立しているかはわからない。それなら二週間待って、生理が来たら妊娠不成立、遅れたり検査薬で薄くても陽性が出たら妊娠。このふたつにひとつなのだから、行かなかった。

 

すると、妊娠!!

 

このとき、チェックワンとかドゥーテストは高いので、私は米国Amazonで妊娠検査薬(紙製とデジタル製)を個人輸入していた。生理予定日前から使えるということで使ってみたら、うっすらと陽性判定の線が。格安で数十本単位で持っていたので、毎日毎日検査をすると、妊娠判定線が濃くなっていった。そこで、高いから紙製で陽性が出てから使おうと思っていたチェックワンデジタル(今は国内でも買えます)を使用。

 

これは妊娠してなければ、

not pregnant

妊娠反応があれば

pregnant

 

とデジタル表示されるもの。

出ました!出ました!

 

『pregnant』

 

6週目にクリニックへ行き、

前回の妊娠では一度も見ることのできなかった胎児心拍が確認され、不妊治療専門クリニックを卒業し、紹介状を持って、上の子を出産した病院へ戻ることに。このときは念願も念願だったので、ただただ安堵し、嬉しかった。

 

排卵確認に行かなくていいやーどうせ妊娠してなかったら生理が来るんだし』

 

で本当に妊娠していたのだ。不妊治療専門クリニックからは『卒業祝い』としてひよこ柄のガーゼ手ぬぐいを頂いたが、今も未開封(笑)

 

エンジェルサウンズ無駄買い

 

前回の妊娠が流産だったため、やっぱり初期は不安だった。不妊治療をしていたので妊娠判明が早く、不安な時期が長かった…ので、お腹に当てると胎児の心音が聞こえるという『エンジェルサウンズ』という機械を買ってみた。が、

 

デブ過ぎて全く聞こえず。

 

もう、笑えるのか笑えないのかわからない…。全然聞こえないので逆に不安になり、4千円くらいで買ったのにすごい無駄な買い物になった。今も、押入れに眠っている(笑)

 

大らかすぎる妊婦生活

 

そして、安定期。

 

一人目妊娠中は自由がきき、アロマトリートメントに行ったりもしていたが、今度は幼稚園年少の上の子を抱えての生活。そして鬼遠い甲状腺専門医院への通院も継続。そして何より

 

初産より年をとっている

 

ということもあり、疲れやすくなっていて健診をネット予約で延期にしてもらったり、家で寝ていたこともあった。

 

(※妊婦健診は全て行きました)

 

分娩予約をしたのは、上の子を産んだのと同じ病院。リニューアルされてガラッと変わっていた。リニューアル前も好きだったけどね。

 

上の子のときは何ヶ月になってもあれだけ不安で心配で待ち遠しかった健診だったが、二人目はのんびりしていたら『えっ?もう健診!?』と、四週間の早さに驚くくらいだった。

 

そしてこのときも、

 

つわりは一切なし。

 

友人は『ほぼトイレに住んでた』『つわりが重すぎて入院した』『ゼリーしか食べられずそれも戻して5キロ痩せた』みたいな壮絶体験談を話してくれたが、私は丸っきりの何もなし。

 

やってきました例のアレ

 

やっぱり来ました、坐骨神経痛

痛みでガチ泣きしたよ…

まともに歩けないレベルでした。

 

 

二人目のときは犬印の『ながーく使えるマタニティベルト』を購入。どれだけながーく使えるかというと、今も腰が痛い時などに使っています。坐骨神経痛は10日くらい続いたかな。たった10日?て思われるかもしれないけど、歩こうとして足を地につける度にビキーンと痛み、寝返りをしても痛いのはかなり辛かった。

 

適当すぎる母子手帳

 

上の子のときは、誰に読まれるわけでもないのに、ですます調でビッシリと書き込んであった母子手帳。下の子のときは箇条書きか、妊娠4ヶ月の欄には、

 

特に何もなく元気に過ごした

 

と一行だけ書いてあった(笑)

 

ファミリアのあかちゃんブックは下の子にも用意したが、未だに完成していない。自治体のも産院のも、母親学級は行かず。長女のときは全て参加してハンコがおされてあるが、次女のは白紙。まあ、二人目ってこんなものかな。

 

住吉大社で安産祈願

 

一人目のときは中山寺へ行ったが、二人目は家から近い住吉大社で安産祈願をした。上の子の七五三、私の前厄・本厄の厄払い、子授け祈願を住吉大社でお願いしたので、それもあって住吉に。

 

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腹帯は岩田帯か腹巻タイプから選べた。私はM〜Lというサイズに少々不安を感じつつも普段使いやすい腹巻タイプにした。巨体の私でも臨月まで使えた。

 

 

完全に存在を忘れてたけど、こんな支えベルトみたいなのもついてたのね。それは全然使わなかった(笑)ちなみにこの腹帯、今でも普通に腹巻き代わりに使っている。臨月でも使えた腹帯がズレもせず使える私…

 

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これは私が撮ってあった写真だが、右側中央にある白い安産お守りは社務所で買えるお守りとは違い、安産祈願の祈祷を受けた人だけが貰えるものなので、上の木のお守りと、子授け祈願のときに貰った『種貸人形』だけを、お宮参りのときに返し、白のお守りは記念に置いてある。三角の紙の中には、石を入れておく。これも返したかな。忘れた。

 

腹帯は使わなくてもいいかなーと思っていたけど、この住吉大社で貰ったものと、洗い替えにもう一枚買った。

 

 

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こんな感じで箱に入っていた。この腹帯はホールド感をとても気に入って使っていた。というか、これも今も使っている。腰痛が酷いときに、犬印マタニティベルトと併用している。一人目のときはわけもわからず適当なやつ買ったけど、ワコール腹帯かなり良くて、たまに人に勧めてる(笑)

 

誰にも気づかれない妊娠後期

 

妊娠後期に入るとさすがにお腹が出てきて妊婦らしくなってくるものだが、元から巨体な私…身近な人からすら、妊娠していることに気づかれなかった。臨月まで何度も会っていた実家の隣の奥さんは『えっ?今臨月?』と驚いていたし、出産10日前くらいに四国から会いに来てくれた従兄とその息子は、私が夫と電話でベビーベッド組立ての話をしているのを聞き、

 

『誰のベビーベッド?』

 

とポカンとしていた。私があと10日で出産すると答えるとビックリしていた。他にも産後次女を抱いている私を見た近所の人などに『えっ?いつのまに?えっ?』と何人も言われ、『臨月にも会ってましたよー』と答えては驚かれた(笑)一人目のときは5ヶ月くらいから誰がどう見ても妊婦だったし、私のデカさ自体は一人目も二人目もそう変わらなかったのに、謎だった。

 

胎児ドックで熟睡

 

私が出産した病院では、28週とか30週くらいに希望者には『胎児ドック』があった。自費なんだけど、狭めのプラネタリウムみたいなお部屋で、胎児の様子をしっかり見てくれる。暗めの部屋の天井に赤ちゃんが映し出され、内臓とかもしっかり見てくれる。

 

が、あまりの心地よさに爆睡。

 

上の子のときは転院したのが30週くらいだったので胎児ドックは受けられなかったけど、これもいい思い出になった。寝てたけど。

 

思わぬトラブル…不安な年越し

 

妊娠後期、もうあと1ヶ月少々で出産というときに、なんと血糖値が高いということで再検査になった。年末スレスレの時期に、産婦人科ではなく家の近くの内科でソーダ飲む検査をしてもらうことに。

 

もう仕事納めぎりぎりに検査をしたので、結果がわからないまま、2017年を終えた。これがまあものすごい不安で、いろんなブログを読み漁っては、総合病院に転院した話を見て半泣きになった。そして年明けて2018年、

 

バリバリ妊娠糖尿病判明。

 

さすがに転院とかになるかもしれず、夫に病院についてきてもらった。もう憂鬱で憂鬱で、しかも胎児にも影響があるかもしれない病気。でも、転院にはならなかった。栄養指導を受けただけ。

 

お下がりを出す楽しみ

 

90%女の子ということがわかり、長女が使っていた衣類などを出すのも楽しかった。ただ、生まれた季節が全く違うので、何もかもお下がりで賄えるわけではなく、それなりに買い物も楽しんだ。望んで待ちに待った赤ちゃん、前記事に書いたようにもう産む日も決まってたし、臨月は短かったけど、のんびり楽しく過ごした。

 

 

そんなわけで、二度の妊娠生活は、色々あったといえばあったけれど、穏やかでとても幸せな日々だった。帝王切開を振り返ったら、何だか妊娠中のことも振り返りたくなったので、記憶の新しいうちに自己満的に書いてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マタニティライフの話 初産編

帝王切開の話を書いたので、

何となく二度の妊娠について書いてみる。

赤裸々に(笑)

 

いきなり重たいが、『二度の』と書いたけれど、私は正確には三回妊娠した。次女妊娠前のことで、稽留流産となった。今回は触れないが、一生忘れないし、今もその子に会えなかったことを、心から残念に思っている。

 

第一子妊娠判明!

 

12年前の旅行のことを書ける記憶力(勉強にはまるで生かされない)の私だが、色々ありすぎてこの頃のことはあまり覚えていない。

 

妊娠判明は、こんな形でやってきた。

 

  • パチンコ屋の帰りに
  • マツキヨでチェックワンを購入
  • 帰宅後、検査
  • 2秒でくっきり陽性判定
  • ビビる

 

ちなみにそのとき打っていたパチンコはAKBの台で、板野友美を選んですごい連チャンした。パチンコ屋デートというかただ夫に付き合わされただけだったが、妊娠判明時の記憶としてずっと頭に残るだろう。パチンコ屋ももう数年単位で行ってないけど、色々変わってるんだろうな。月のものが遅れてるなー、近所に(当時は)ドラッグストアもないし、買って帰るかーと思って買い、眠らせておく意味もないので検査をしたらバリバリの陽性だった。

 

どう思ったかさえ覚えていない。

え?みたいな感覚だったと思う。

 

とりあえず雑誌を買う

 

『はじめてのたまごクラブ』という雑誌を近所にあった書店で購入。そこは今、ドラッグストアに変わった(笑)ペラペラ読んでいたら、途中から、

 

  • つわりの時食べられたものは?
  • つわりをどう乗り越えた?
  • 先輩ママのつわり体験談

 

と、とにかくつわりのことばかり書かれてあった。8週目頃に始まる人が多いとか書いていて、あー、私もあの『うっ…!』を体験するのねなんて思いつつ読んでいた。

 

全くつわりはなかった

 

どうやらこれは遺伝のようで、私の実母もその姉も、つわりに苦しんだ人はいない。昔のドラマではよく洗面台でゲーゲーやっていたが、『普通トイレやろ』とか突っ込んでいた。私はつわりのときトイレで吐こうとか決めてもいたが、吐きづわりは一切なかった。

 

病院を予約

 

妊娠したらまず病院を決めろと『初たま』に書いてあって、ちょうどその雑誌にも広告が出てたんだったか、家からまあまあ近い産婦人科病院を受診することにした。『無痛分娩がいつでもできる』のがウリらしく、痛いことは全部嫌な私はこれに飛びついた。

 

最初のうちは夫にも付き添ってもらったが、その意味を一切感じなくなり、途中からは一人で通った。出産予定日が決まったときのエコー画像には、7週2日と書いてあった。

 

エコーは4Dエコーで毎回DVDに記録してくれるのだが、ほぼ見たことがない。一度、性別を判定してくれる医師らしき人がいるという2chスレに動画を上げるためだけに使ったっけ。ちなみに、その人は『女児と判定します』と当てた。今はスレでは見てもらえないらしいけど、そこまでして性別を知りたかったんだなーと当時の自分を振り返る。

 

滋賀県とか大阪のめちゃ遠い病院で『早期性別判定』をやっている病院を見つけて、本気で行こうかと思ったがさすがにそこまではしなかった。そんな初期から気にしまくっていた性別は、結局8ヶ月までわからなかった。

 

絵に描いたような妊婦生活

 

その7週2日に予定日が確定し、母子手帳を貰った。その足で百貨店へ行って母子手帳ケースを買ってもらって、いよいよマタニティーな生活の始まりだ。マタニティーアロマボディトリートメントみたいなのに二軒ほど行ってみたり、強制だと勝手に思い込んで自治体の母親学級に行ってみたり。プレママ友的な人ができてお茶を飲んだり。まあ、そのプレママ友達は見事に全員、地元から去って行ったけど…

 

唯一のトラブル

 

はい、坐骨神経痛

半泣きで過ごすほどの痛み。やっと安定期に入ったかな?という頃に襲った太ももから足にかけての痛みに、なんじゃこりゃと戸惑った。妊娠中痛かったのって…多分これくらいなんだけど、とにかく泣くほど痛かった。

 

不安との闘い

 

初産に限らないことだが、妊娠中期の『健診が月に一回』の頃はもう不安で不安で堪らなかった。4週間の何と長かったことか。同時にこの頃から、通っていた病院にも何となく不安にさせられるようなことがいくつかあり、妊娠中期は元気に過ごしながらも、心配や不安との闘いだった。

 

辰年 男と書かれていた腹帯

 

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安産祈願はいつ行くのかと母がせっつくので、妊娠5ヶ月を迎えた戌の日に、関西の安産祈願といえばココ!

 

中山寺へ安産祈願をしに行った。

 

中山寺で頂く、性別が書かれてある岩田帯には様々な言い伝えがある。

 

  • 書いてある性別の子が生まれる
  • 書いてある性別と逆の子が生まれる

 

私は後者を知っていたので、『辰年 男』と書かれた帯を見て、『当たれば女だな』と思った。今は亡き伯母が、着帯日当日だった私にその岩田帯を巻いてくれた。

 

娘の帯祝いに際してうちの母親は『姉ちゃんこれどうやんの?』と姉頼み。伯母が巻いてくれた岩田帯を半日だけつけて過ごし、昔の人は毎日これを巻いていたのかぁと感慨深くなった。そして、よく考えたらその時点で辰年(2012年)、お礼参りで新しい帯を納めるわけで、回転早いなぁーなんて思いました。この中山寺へ行ったとき、戌の日ということでなかなかの混雑ぶりだったけど、ぶっちぎりで私のお腹が出てた(笑)伯母も『◯◯だけ産み月みたい』と言ってたのを覚えてます。

 

ちなみに腹帯は、腹巻タイプ+マジックテープベルトみたいなものを使っていた。トコちゃんベルトも買ったが、お腹中央部分に折れ目がついてしまい、あまり活用できなかった。

 

↑これだったかな。

 

転院を考える

 

この頃から、楽しいだけのマタニティライフではなくなってきた。坐骨神経痛も治り、相変わらず元気そのものだったけれど、検査結果を見逃されたり、無痛分娩について助産師さんに何気なく話を聞いたら『ほぼ無意味、最後は麻酔切るよ』とビビらされ、転院を考えるように。

 

でも、今どきはもう妊娠判明時に分娩予約をするのが当たり前。里帰りでもない8ヶ月の妊婦を受け入れてくれる産院などあるのだろうか。そこに、ある病院には分娩予約制がないことに気づき、メールを送ってみたのだった。

 

転院、決定。

 

10万円納めてあった予約金が2万円をキャンセル料として支払い、二人の子を産むこととなった病院へ転院。快く迎えてくれて、その日に性別も見てくれて(前の病院は見てくれなかった。隠しているわけではないそうだが。わからないならそう言ってほしい)、先生も看護師さんも優しかった。カフェスペースで一対一で色々説明してくれて、何よりも前の殺風景な病院で、『出産してる人…いる?』みたいな雰囲気は全くなく、健診に行くたびぐらいに、可愛らしいセレモニードレスを着た赤ちゃんが退院していき、安心できた。後期の妊婦を、紹介状があったとはいえ、よく受け入れてくれたと今も感謝している。

 

妊娠後期、出産準備

 

お腹が大きくなり、前の病院の助産師さんに8ヶ月のときに『臨月?』と聞かれたりしていたが、後期も元気だった。ベビー用品を揃え始め、後から考えたらいらないものだらけだったが、どうでもいいものほど、次女にお下がりをしていることが多い(笑)

 

胎動もどんどん感じ、幸せな日々。

 

後期に入り、健診が二週に一度になってからは、産院のそばのカフェでパスタランチを食べるか、産院の並びのケーキ屋さんで前回載せたレモンパイを買うのが楽しみでもあった。この頃には、名前も決めていたかな。夫と近くのショッピングモールをウォーキングがてら歩いたり、早く会いたいなーととにかく待ち遠しかった。当時26歳、それなりの体力もあったんだなぁ(笑)

 

臨月を迎える

 

私の出産予定日は5月頭だったので、臨月の週一健診はお花見散歩気分だった🌸これもよかったなぁと思う。極度の暑がり汗かきの私、これが真夏とかなら無理ィィィてなってたと思う。

 

そして前記事に書いたように、

無事帝王切開で第一子を出産。

 

そんなふうに生まれた長女も、

来年小学校入学。

 

長女の母子手帳には、誰に見せるわけでもないのに、『ですます調』でビッシリとあれこれ書いてある。ファミリアで当時もらえた『あかちゃんブック』もエコー画像のコピーを貼ってあれこれコメントを書き、今も置いてある。

 

いつかもし、長女が妊娠・出産を迎える時には、それを渡してあげられたらいいなと思う。

 

さて、次は次女のマタニティライフ?

を書き残しておきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

帝王切開って◯◯でしょ?の話

私は、二人の子供を帝王切開で出産した。

 

帝王切開だって立派なお産なのにラクに産んだ扱いをされる!自然分娩より劣っているかのような言い方をされる!』

 

こんな話をよく見かける。

勿論、私も少しは言われたことがあるが、

 

正直あまり気にならない。

 

相手に貶すつもりがない言葉に『お腹を切るのは怖い』というものがあるが、正直に書くと、

 

私は自然分娩のほうが怖い。

 

なぜ『何々なんて怖い、私には無理!』

という言葉が出るかを考えると、

 

自分が経験していないから。

 

これに尽きると思う。

 

私は、自然分娩そのものどころか、

まず陣痛を知らない。

(ちなみに、つわりも知らない)

 

帝王切開にはざっくり言って二種類あるのをご存知だろうか?

 

自然分娩の進行中に何らかのトラブル(胎児の心拍低下や回旋異常、母体の血圧が急上昇など様々)により、急遽帝王切開に切り替えるのを

 

緊急帝王切開

 

という。ちなみに私の母親はこの緊急帝王切開で私を出産している。36時間の陣痛に耐えていたが、母が出産した個人病院の院長は

 

ゴルフに行っていて不在

 

だったそうだ。私が生まれたの…水曜日の朝なんだけど…ゴルフが前の日だったとしても、火曜日なんだけど…(笑)そして、母の母子手帳を見ると、私は42週6日で生まれている。待ち過ぎじゃない…?42週目で生まれて体重は3690gだった。

 

そして、もうひとつは、事前に帝王切開での出産が決まっているケース。逆子であったり、多胎であったり、母親の骨盤の大きさと胎児の頭の大きさが合わない場合、何らかの理由で自然分娩が困難な場合、帝王切開をするほうが母子ともに安全だと判断された場合に選択される。それから、前回が帝王切開での出産の場合も多くの場合はその次の出産でも帝王切開となる。

 

これを、

 

予定帝王切開

 

という。

私は後者、予定帝王切開で二人を出産した。

 

一人目の帝王切開が決まったのは、予定日の数日前だった。これは結構珍しいケースだそうだ。直前だったからか、『この日にします』と医師に決められた。39週6日、つまり出産予定日前日に手術することになった。なぜ予定帝王切開になったのかは、ここでは触れると長いので割愛するが、医師が『帝王切開でいきましょう』と提案するようなことがあった、とだけ書いておく。諸外国では普通だそうだが、日本では多分、

 

帝王切開をしてください』

 

と何の問題もない健康な妊婦が希望しても、なかなか通らないと聞いている。私はちょっとレアなケースかな。

 

帝王切開と決まったとき、怖いという気持ちは全くなかった。帝王切開経験者の先輩ママに術後や入院時のお役立ちグッズをLINEで聞いたり、前向きに考えていた。が、一人だけビビらせてくる人がいた。

 

まさかの実母。

 

『こうなぁ〜メスか何かで肉をグッグッグッと切られるの分かるしなー後は痛いし、ママなんかアンタ産んですぐもうとんでもない熱出て、下手したらもう一回切らなあかんとか言われてほんまエライ目に遭うたわ〜』

 

よくもまあ、これから初めての帝王切開に、それもほんの数日後に臨む実の娘を相手にこれだけのことを言えるなぁと笑ってしまうほどだった。別に毒親とかじゃないんだけど、変なところで正直者なのだ。30年以上付き合ってみてわかるので、まあ軽く流したけどね。

 

あれよあれよと言う間に出産前夜を迎えた。絶食前に食べたのは、今でも覚えてるが近所の大阪王将だった。帰って布団に入ってからは、私の超絶マイナス思考が炸裂して、『帝王切開 麻酔 切れる』とか検索したりしてた(笑)私はいつもこういうことをする。本当に不安とか気になるというのもあるけど、

 

最悪の最悪を想定する

 

という癖があるのだ。それをやってるときはビビるし恐怖もおぼえるが、大抵終わってみたら『想像より遥かにマシだった』となることが多いので、メリットも少々ある(笑)

 

いよいよ迎えた出産当日。

 

上の子のときは午後からの手術だったので、当日に夫・母と車で病院へ。何とも不思議な気持ちだった。『ああ、私今から子供産みに行くんだなー』みたいな。私は術前の準備があったので、手術室の隣でずっといたが夫と母は普通に昼食を食べに行ったりしてて、

 

暇だった。

 

私の出産で痛かったこと第二位が、

 

導尿の管を入れるとき

 

痛い痛い痛い!と声を上げた。そんなこんなで、さあ、手術室に入る時間。開腹手術なので、当然麻酔をかけてもらう。ここで、とんでもない事態が発生した。

 

デブ過ぎて麻酔が入らない

 

『膝を抱えてエビのような姿勢で』麻酔を打ってもらうというのはよく聞く話だと思うが、それでは何度やっても麻酔が入らず、何回も何回も…もう数えてないけど、いや数えきれないほど刺し直し。

 

脳裏によぎったのは、『麻酔ができないので手術中止』とか『県立病院へ救急搬送』みたいなことだった。結局、妊娠により巨デブさMAXの私が、小柄な助産師さんに思いっきり体重をかけて抱きつくようにして麻酔を打つと、入った。このときの助産師さんに、

 

『すみません、重くてすみません…』

 

と謝り続けていたが、重くないはずがないのに、重くないですよ!これで麻酔入りますからね〜みたいに明るく励ましてくれた。

 

そして、感覚がないことを確かめられ、やっと手術開始。執刀医の先生に『痛かったら言ってね』と言われたが、開腹手術中に痛いって何???とビビっていた。

 

ところが、母にビビらされた

 

肉を切られる感覚

グッグッグゥ〜👍

 

など皆無だった。麻酔、効いてた!

優しい看護師さんが声をかけてくれていて、拍子抜けするほどあっという間に子供が生まれた。メスが入ってからほんの数分だったと思う。生まれたのは、

 

4000g超えの巨大児

 

2500g以下で生まれた子を『低出生体重児』というのに対し、4000g以上で生まれた子のことは本当に『巨大児』という。我が子の無事の誕生を喜び、今度は開いたお腹の縫合がある。ちなみに、医師から私の子を受け取った助産師さんは『重たい!』と思ったと後で話してくれた(笑)

 

そして…

 

ここからが長かった。

 

産声を聞き、お腹が開いているので抱くことはできないが、生まれたての我が子と対面し、子供は体重や身長の計測、夫がいつの間にかやることになっていた臍帯カットのため、手術室から出ていった。

 

産声を聞くまでは気を張っていたが、出産を終えると一気に疲れた。血圧が下がり、医師の処置の度に身体が上下に動くような感覚があり、とにかく縫合が終わるまでは不快だった。早く終われ〜と念じていた。

 

やっと終わり、手術台からベッドに(フロントの女性まで駆り出されてスタッフ総出で)のせかえられ、母や夫、心配して来てくれていた伯母(故人)と対面。子供は母や伯母に抱かれ、私は寝たきり。

 

早い段階で痛み止めを入れてもらい、さあ、術後の一晩だけを過ごすリカバリールームに戻ろうかというときになったら、

 

夫と母が帰宅していた。

 

いやいやいや、何で帰る?!

面会時間、まだあるよね?

 

『帰りの車で虹見たでー』

 

などというLINEが母から届いてた(笑)

 

そしてここからが長い一夜。

担当が夜間帯に変わり、ベテラン助産師さんが何度も私の様子を見に来てくれた。いい人だった。ご自身も三人のお子さんを帝王切開で生んでいるという頼もしさ。

 

『絶飲食辛いですねーうがいしましょ』

 

と何度もうがいをさせてくれた。

それを翌日別の看護師さんに言うと、

 

術後2〜3時間で水分摂取OK

 

と言われ、えぇえぇえ?!となったし、看護師さんも『え?全然飲んでないんですか?!』と驚いていた(笑)人間って『こういうものなんだ』と思い込んでいると意外と我慢できる。同じようなエピソードに、術前に履かされる加圧ソックスの両足小指だけが外に出ていたのも、それを見た看護師さんが

 

これ気持ち悪くないですか?

 

…え?小指だけ何かの理由で出してるんだと思ってたんだけど…違うの??となったり。夜勤担当の助産師さんは、優しいけどあまり痛み止めをバンバン使ってくれず、真夜中にひとり、

 

『痛い……』

 

と呟いた記憶がある。

 

翌日の昼間には入院する部屋に戻り、車椅子に乗せてもらったのだが、一瞬とはいえ座るときに悶絶級の痛みが走った。これが私の初産の痛み第3位かな。ただし、一瞬。

 

その後は『元気な産婦さん』と皆に言われ、初日から夜以外は母子同室で過ごしていた。でっかく生まれて顔パンパン、

 

魔人ブゥくりそつの子供

 

の写真を撮ったり、豪華で美味しい食事を堪能していたが、産後2日目か3日目から…

 

激しい頭痛が…

 

これが、出産で体験した痛みダントツ1位。

 

頭痛が起こる理由は、麻酔針であいた穴から髄液が脳に回り、頭に回ってしまう『髄液漏れ』が原因だった。もう寝て寝て寝まくった。横になっていないと耐えられないほどの酷い頭痛。ちなみにこの頭痛には、ロキソニンなどの鎮痛剤は、

 

一切効かない。

 

何度も点滴を打ってもらい、退院の頃にはすっかりよくなっていたが、本当に痛かった。気軽に新生児室で子供を預かってくれる産院だったので、立って下を向いてのオムツ替えもままななかった私は、預かってもらうより他なかった。

 

と、こんな感じで、私は1児の母親となった。

帝王切開の傷跡は、帝王切開用術後帯みたいなのを準備していたからか、腰が曲がっていたのはほんの数日で、帰る頃には痛みほぼ無しくらいにまで回復していた。

 

そして、四年半後。

 

二人目の出産。

 

このときは初期から予定帝王切開が決まっていたので気楽だった。出産予定日は35週のときに待合室にいたら看護師さんに『何日か何日どちらがいいですか?』と聞かれて自分で決めた。

 

実際の手術日となったほうは金曜日なのでその後すぐ土日がくるから夫も来やすいかなということと、執刀医が健診でずっとお世話になった先生だからということで我が子の誕生日を決めたのだった。

 

バースプランには『子供の誕生後処置をするときは鎮静剤で眠らせてほしい』とか『痛み止めは積極的に使ってほしい』などと書き、二択から決めた手術日の前日に病院入り。

 

このときは車ではなく、キャリーケースを持って電車で産院へ行き、初産とは違って朝一番の手術だったので、前日から泊まり、術前の準備も大半は前夜までに終えていたので、のんびり部屋で過ごし、面会時間ギリギリまで母・夫・上の子と部屋で過ごした。

 

夕食は病院で出されたが、21時から絶食ということで、これも覚えているが、

 

20時59分にケーキ食べた

 

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産院の並びに結構有名店ながらリーズナブルなケーキ屋さんがあり、そこのレモンパイだかレモンケーキだかが大好きで、ここから約丸一日何も食べられないことをわかっていたので、ガッツリ食べておいた。入院中も母が毎日のように買ってきてた。あれ最近食べてないなぁ、あの辺に行くたびに休みだったり、焼き菓子しか売らない日だったりで。

 

次は、ホールで買おう。

 

手術当日は朝7時に二階に来るようにということだったので、ルイボスティーをのんびり飲んで、『お産ルック』(ピンク地に白ドットのよく見るアレ)に着替え、その下は全裸で下りていった。待機室でやることといえば、恐怖の導尿と点滴のルート確保くらいで、導尿も今回はビビりながらも大したことなかった。

 

看護実習生二人の見学を頼まれ、

 

こんなんでよかったら

 

などという謎の答えで快諾し、え?もう?といううちに手術時間に。1月の寒い時期に、ドットピンクお産着も脱いで、全裸で手術室へ。自分以外は服を着ているので何か…シュール(笑)

 

さあここで思い出すのが、上の子のときあれだけ苦労した麻酔。執刀医は健診のたびにお世話になった先生だったので、麻酔が全然入らなかったことは話しておいたが、

 

一発クリア!先生すごい!

 

先生、自分でも『奇跡』て言ってたけど(笑)ところがこの麻酔がどうやら爆効きしたらしく、血圧が下がり、絶食したのに吐き気が…新生児を迎える部屋なのでそんなに寒くはなかったと思うが、痙攣?と思うくらいガクガク震えるほど寒かった。血圧だけでなく、体温も下がっていたのだと思う。

 

上の子のときと同じように、助産師さんか看護師さんが状況説明をしてくれたが、あまりにも気分が悪く、あまり耳に入ってこなかった。

 

生まれましたよ〜!から少し遅れて、産声が聞こえた。このとき、性別を尋ねている自分の声が動画に残っている。90%合ってると思うけど…とは言われていたが、確定しないままの出産だったからだ。

 

『じゃあ、寝ようか』

 

先生がそう言って、鎮静剤を点滴してくれた。バースプランに書いておいた、

先生にも直々に頼んでおいたことだ。

これで楽になれる〜!

 

全然効かず。

 

上の子のときも、私に余裕がなくて気がつかなかっただけで、多分同じ処置をしてくれていたのだと思う。痙攣レベルの寒気と続く吐き気、血圧下降でピーピー鳴る機械音、そしてやっぱり体が上下するような不快タイムを味わった。

 

二人目のときは、CDを持ってきていいですよと言われていたので、これを持参。

 

マタニティ

マタニティ

 

 

一人目のときにレンタルで借りて、結構好きだったので、二人目妊娠中に中古CDを買って持って行った。一人目のときは自分のiPodを持参してイヤホンを耳に入れる方式だったが、看護師さんが音量調節がわからず耳に爆音が(笑)結局BGMを諦めたが、二人目のときは部屋に流れるようになっていた。

 

そうしてどうにか、手術終了。

まだCDがかかっていたので、

多分手術時間は1時間ほどかな?

一睡も寝るどころか意識ビンビンで終了。

 

健診から執刀までしてくれた先生は本当にいい方で、手術台から『せーの!』とやるときも、リカバリー室に戻ってまたベッドに私を『せーの!』とやるときも参戦?してくれて、事前に渡してあった帝王切開用腹帯を巻いてくれまでした。

 

(↑上の子のときのはベルト3つだったが、リニューアルされてた。旧版は洗い替えにした)

 

手術を終えた私を見た夫は、ガックンガックン震えて歯のガタガタも一向に止まらない私を見て、

 

引いていた(笑)

 

手術中付き添ってくれた助産師さんに『吐き気と震えがすごかった』と言うと、

 

『めちゃ麻酔効いてたもん』

 

と笑いながら言われた。

 

ちなみにこの人はうちの産院唯一のタメ口キャラだ。一見とっつきにくくて、ハズレかと思った(…と同じ病院で出産した大学の同級生も言っていた)が、実はかなりいい人で、入院中は夜も何度も部屋に来ては様子を見にきて、色々話してくれる方だった。

 

そして、今度は夫は帰らず、面会時間終了まで一緒に過ごした。術後2時間かそこらで、味つきいろはすを飲むことができた。幸運にも、一人目出産のときに『巨体の私にのしかかられた助産師さん』と『4キロ超えの子供を重い!』と言った二人が当直担当で、手術前日・当日と私の担当をしてくれた。

 

術後は痛み止めの座薬や筋肉注射をバンバンやってくれて、何度も様子を見にきてくれて、本当に嬉しかった。一人目のときの助産師さん達の写真をGoogleフォトから出してきて見せたら『イヤー!若いー!』とすごく喜んでくれたりとか。

 

そして朝9時頃出産して夕方前には、

 

『もう痛みのピーク終わったと思いますよ』

 

と言われた。

 

え?もう?これで?

 

と思うほど、術後はラクだった。二人目以降のほうが強さが増すと聞く後陣痛も、

 

全然なかった。

 

だが、私はまたやらかしてしまった。

 

生まれたばかりの子供の写真を撮りたいとベッドの上で動ける限り動き、隣に寝かせて顔を覗き込んだり、色々とやっていた。

 

『頭を動かさないほうがいい』

 

と言われていたのに、一人目のときあんなに辛い頭痛に悩まされたのに、待ちに待った子供の誕生にテンション上がって全て忘れていた。

 

翌日の昼頃にはリカバリー室を出て、入院の部屋へ。一人目を出産したのと同じ病院だったが、その後リニューアルして各部屋が広くなった上、リピーター特典でワンランク上の部屋に入れるということで、巨大ベッドのある快適ルームでの生活が始まった。(術前の夜からそこにいたけどね。)

 

この移動のとき、『車椅子を用意しましょうか?』と聞かれたので、初産で体験した痛み第三位を思い出し、

 

『歩きます』

 

と即答。実際、どうしても腰は曲がってしまうものの、歩いたほうがラクだった。

 

部屋のソファに座り、コットという移動式新生児用ベッドに寝かされた子供が部屋に連れてこられた。抱いてまず思ったのが、

 

軽い…小さい…

 

下の子の出生体重は約3,100gと標準も標準。重くも軽くもない、普通の体重なのだが、

 

上の子と1キロ以上違う

 

ため、めちゃくちゃ小さく感じた。手脚なんてめちゃめちゃ細い。『これがレギュラーサイズか…』と思って、二人目不妊の治療をしてやっとこの手に抱くことのできた子供を飽きずに抱っこして顔を覗き込んでいた。

 

ただ、上の子は出産予定日前日に4キロ超えで生まれているが、下の子は予定帝王切開のため37週6日と2週間早く生まれているので、単純には比べられないかな。2週間で1キロは…増えないか(笑)

 

そして産後2日目か3日目くらいかな…

 

当然来ました、頭痛。

 

頭痛は二人目のほうが酷く、頭だけでなく首から肩の辺りまで痺れるように痛み、ベッドに寝ていると大丈夫なのだが、立って何かしようとするとあまりの痛みに倒れそうになった。

 

どれくらいキツい痛みだったかというと、

この超大食いの私が…

 

産院からのお祝いフレンチディナーを途中でギブアップ、ナースコールして点滴を頼む

 

レベルだった。ちなみに量としては普段なら三人前は一人で食べられる量だった。食べきりたかったけどとても無理で、これアカン…と点滴。点滴ものすごい長かったなぁ。

 

お腹の傷の痛みは、頭痛のためか忘れて、いつのまにか背筋が伸び、退院する産後6日目にはスタスタ歩いていました。

 

帝王切開で出産する人は、

術後は頭を動かさないでね!

まじでエライ目に遭うよ!

 

ずっと点滴してたし、二人目だからということで調乳指導(ミルク会社の栄養士さんが部屋に来る)とか沐浴指導(新生児室の中でお風呂の入れ方を教えてもらう)は全てパス。

 

『朝食を食べる→子供は新生児室に預かってもらって、私は点滴を受ける→寝る→気づいたら昼食が運ばれてくる』

 

という、帰宅後は絶対にありえない幸せな日々ではあったが。朝食べて寝てたら勝手に昼食が運ばれてくるとかパラダイス以外の何なのだろうか。それに、食事の美味しさも素晴らしい。

 

さて、帝王切開ラクとかどうとかの話だが、予定帝王切開で出産し、一人目のときも二人目のときも自分がリカバリー室で産後一晩過ごしているときに緊急帝王切開になった人がいた私から見ると、

 

緊急の人は本当に大変そう。

 

まず、途中までは自然分娩で進行しているため、陣痛の痛みを味わっている。これがすごいと思う。それに、手術日が決まっている予定帝王切開では、心電図の検査や絶食といった手術準備をしているが、緊急の場合はいきなり。陣痛で体力を消耗しているのに、術後も痛い。『緊急』というだけあって突然決まるわけで、『自分は開腹手術をするんだ』という心の準備をする時間がほぼない。

 

ただ『心の準備が〜』については、私の母、中学からの親しい友人、よく行く喫茶店のママさんら緊急帝王切開経験者の人達の話では、帝王切開に切り替えますと医師から言われたとき、

 

何でもいいから早く切って

 

と思っていたらしく、麻酔が入った瞬間天国かと思ったそうだ。私にとっては未知の陣痛…すごい。そして、一人目のときは退院指導、二人目のときは茶話会で他のお母さん達と会い、どちらにも緊急帝王切開のお母さんがいたが、

 

やはり何の体力も使わず、術前の準備をした上で予定帝王切開をした私のほうが産後元気だった。一人目のときは、『陣痛に耐えたときの筋肉痛と、術後の傷跡が退院指導の日になっても痛い…』と半泣きになっていたお母さんが、ほぼ真っ直ぐに立ってドカンと椅子に座っている私に言ったので、『帝王切開用腹帯』を勧めてみた。

 

お腹はザックリ切っているが、自然分娩の会陰切開をしていない私は、普通に椅子に座っていたが、自然分娩のお母さん達は部屋に備え付けてある円座クッションに座っていた。その後、人によっては1ヶ月くらい痛いとか違和感があると聞いて、腹を切っている私、

 

怖い…

 

と思ってしまった。

自分が体験したかしてないか、結局そこだ。

 

人がお産をしたら、

母子の無事を喜び、

新たな命の誕生を祝福し、

ママにはよく休んでねと声をかけ、

赤ちゃんを可愛い可愛いと言い、

どんな方法で生まれても、

それに言及しないのがちょうどいい。

 

ある程度落ち着いてママ同士集まったら、

 

なぜか出産体験談トーク

 

が大抵始まるが、それも、『自分はこんな感じだったかなー』と、自分がした自分の体験をサラッと語ればいい。ただ、ちなみに私は、他人のお産体験談を聞くのが大好きだ。正直あまり子供好きではないほうだが、その話を聞いているときばかりは、『この子はそんなふうにして生まれてきたのかぁ』と愛おしいような気持ちになり、頭のひとつも撫で撫でしたくなるのだ。

 

私の場合は、

 

帝王切開なんてラクでしょ』

 

と言われても何とも思わない。オバちゃんとかに少々以上の意地悪な気持ちをもって問われたこともあるが、

 

ラクだったよ』

 

と答えている。たまにいるのよ、帝王切開は楽だと決めつけたい人、自然に産みたかったに決まってるのに産めなかった扱いをしたい人が。

 

楽かどうかに関しては、私は実際産後も含めてそんなに壮絶な体験をしてないので、そう答える。自然分娩を知らないから、比べることもできないし。また、これから帝王切開を迎えることになり不安そうにしている友人知人にもあくまで私はだけど、そんな死ぬほど痛いとか苦しい思いはしてないよ、と自分の体験を話すようにしている。

 

『子供が無事に産まれ、母親も疲れたりどこか痛んだりしてもどうにか育児をしている』

 

これでいいじゃない。

これ以上のことはないじゃない。

 

腹切ろうが下から産もうが、子供の見た目で区別がつくわけでも、履歴書に書くわけでもない、こだわる必要はないと私は思う。

 

まあ、そんなわけで、頭痛がダントツでいちばん辛かったというよくわからない私の帝王切開体験談になったが、私は帝王切開で産んでよかったと心から思っている。特に巨大児の上の子は…自然分娩に挑んでたらどうなってたか。本人が満足してたらそれでいいし、お産に不満というか納得いかない人もいるだろうけど、そういう人には、その話を向こうから話すまでは触れないのが一番。

 

さて、そんなお話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12年前のイタリア旅の話 後編

さて、前回の続き、アッシジ最終日夕食での事件を書く前に。

 

私はたった一人だけ、イタリア人の友達がいる。私は英語科の高校に通っていたが、英語の四技能と言われる『読む、書く、聞く、話す』において、『書く』が最も苦手で、試験の成績はめちゃくちゃ悪かった。

 

近所の英語スクールにも一瞬通ったが、読み書きのクラスよりも、コミュニケーションのクラスのほうがよっぽど楽しくてクラスを変わった。外国人の先生と喋るロビートークはタダだったこともあり、クラス以外でも先生と喋り、上達したのは結局元から得意な『聞く、話す』だった。あのコミュニケーションクラス、私以外皆社会人だったなぁ、今も近くにあるから、システムが同じなら通いたいくらい(笑)

 

今のように便利な時代ではなかったが、物を考えるのは得意なので、何とかしてこのクソカスなライティング能力を少しでも高める方法は…となったとき、思いついたのが海外にメル友(完全に死語)を作ることだった。

 

当時はメールでのペンパルを募集できるサイトがあり、捨てアドを取って友達を作った。

 

その中にいたのがイタリア人の友人ステファニアだった。研修旅行でイタリアに行くことをメールで報告すると、彼女は電話番号を教えてくれた。イタリアに着いたよ、今ミラノだよ、今フィレンツェにいるの、今はアッシジよ、ついにローマよ

 

『今、あなたの後ろにいるの』

 

と続きそうな怪談話メリーさんのような電話をかけては、彼女と話をしていた。イタリアの思い出のひとつが、彼女に電話をかけていたあの公衆電話。今もあるのだろうか。日本と同じく、少なくなってるのかな。まあ、このステファニアも、後編に登場する。

 

 

さて、アッシジ最終日の夕食のとき。

 

別れに際して、お世話になったシスターの皆さんが、とても美しい歌を披露してくれた。本当に素晴らしい歌声とメロディーで、皆感動の嵐だった。

 

これは私達からもお返ししなくちゃ!となり、あれこれと候補になりそうな日本の歌を出し合ってみたが、知らない子がいたり、『蛍の光』なんて案が出たが、いやあれ日本の歌じゃないし、とか話が全然まとまらなかった。候補は覚えてないけど、春が来たとか故郷とかそんなんだったと思う。

 

どんなところに泊まってどんなお世話をしてもらうかも全く知らずに行ったため、出発前なり移動のバス車内で歌を練習するとか、メッセージカードをつくるみたいなことはできなかった。

 

するとA先生が、『もう決まらないから歌はやめ。お礼をお伝えすることにして、早く食べてしまって』みたいなことを言い出した。

 

いや、あんな泣く子も出るほどの歌を、そりゃシスターの皆さんはこういう団体客を受け入れ慣れてるかもしれないけど、その晩は他の誰でもなく私達に贈ってくれたのに、こちらからは何もなし?

 

そりゃなくない?

 

と思った私。ふと思いついた。

 

唱歌じゃなくてもいいよね?

 

例えばだけど世代的に多分その場にいた全員が歌えたであろうセーラームーンムーンライト伝説とか、極端な話そういうのでいいと。みんなで日本語で、楽しく歌ってお返しできたらいいなって。

 

でも、みんなで同じメロディーを歌うより、何かちょっとでも工夫のきく歌はないかと考えた。食事はいくつかのテーブルに分かれて座っていたので、私はまず同じテーブルの子達に、

 

君をのせて、知ってる?

 

と聞いた。

 

そう、ジブリ映画『天空の城ラピュタ』の歌である。私のテーブルにいた子は皆が知っていた。隣のテーブルの子達にも聞いてみる。

 

『あれ、いいね!』

『1番だけなら』

『歌詞があったら』

 

そんな感じにテーブルからテーブルへ伝えていき、確か一年生の子が紙に歌詞を書いたような気がする。覚えてないだけで、知らない子もいたかもしれない。もうこれだけ前だと記憶も曖昧だから、全員が歌ったかはわからないが、とにかく『君をのせて』を歌うことで話がまとまった。これを逃したら話はまとまらないし、夕食の時間も終わる…こいつの提案に乗ろう!と思ってくれた人もいたと思う。

 

前へ出たのか、その場に立ったのか忘れたが、『私達からも日本の歌を歌わせてください』と、

 

超!即席君をのせて合唱

 

をすることになったのだ。

 

私が小学校6年の頃、音楽の授業でこの『君をのせて』を習った私は、そのときに担任だったピアノのとても上手な先生から教わったアルトパートを歌うと申し出た。

 

そう、一人でアルト。

 

皆はメインメロディーを歌ってくれたらいい。ちょっとでも、合唱っぽくなるからと。ここまで激長く12年も前のことを書ける私、今より断然若い20歳のときに小6で習った歌ぐらい余裕で覚えていた。

 

最初からハモるアレンジもあるが、小学生向けの合唱編曲だったのか、出だしは一緒に歌い、私ひとりのアルトが登場するのは、

 

『さあ 出かけよう 一切れのパン』

 

のところから。

 

歌を文字にすると難しいが、

こんな感じになる。

ピンクがソプラノ(メロディーパート)

紫がアルト(ハモり)とする↓

 

さあでーかけーよーう

              さーあ〜 でかけーーよう

ひとき〜れのーパーンー

             ひーとーきれのーーーパン

 

とズレてというか、追いかけるようにして歌うのだ。つまり、私のような声デカ人間でなくても、メインメロディーを歌うソプラノが20人超えに対して私一人がアルトになっても、なんとなく『それっぽく』なる。

 

『ナイフ ランプ 鞄に詰め込んで』

 

のところのアルトはなぜか、

 

つーめーこーんでー つめこーんでー

 

と、二回詰め込んでいる。

 

そしてサビ、

父さんが残した熱い思い

母さんがくれたあの眼差し

 

のところは同時に歌うが、これも微妙に音がズレているので、ソプラノが『あつーいおーもーいー』と歌っているときに私は全然違う音で

 

あつぅい おぉもぉいーいいー

 

というような、文字にしてもやっぱり訳わからないがそんな感じに歌う。そして、本来はその後の『地球は回る君を隠して 輝く瞳 きらめくともし火』のところは、私の小学校バージョンでは、ソプラノはウーウーだかルールーだか歌ってアルトにメインメロディーが回ってくるのだが、ちょいちょいソプラノが『歌詞にない追いかけ』をやる。

 

地球はまーわーるー まわる〜

きみを隠して〜 隠して〜

 

ただ、このときは私以外の全員がメインメロディーを歌っているので、『ルールールールー まわる〜』は私が担当しなければならない。だが、私はウ段の音が下手なので、勝手に

 

ア〜

 

に変えて、大きな声が出やすいようにして、無事、君をのせての合唱は、シスターの皆さんの大きな拍手に包まれて、終えることができた。

 

シスターの一人が、

 

『どういう意味なの?』

 

と聞いてくれたので、私が必死になって訳していた。いや、君を『のせて?』何それ?とか思ったが、何とか伝えようと英語で話した。

 

すると、

 

『そんな言い方はないですよ』

 

と言う人が。

 

A先生だった。

 

何とも機嫌の悪そうな顔をして、じゃあ正しい英語はこうですよと教えてくれるでもなく、私の英語の拙さを鼻で笑うような言い方で。シスターへのお礼の歌を決め、一人アルトを担当して、意味を聞かれて答えている学生の私に、何とも意地の悪いことを言うのだ。

 

旅行中の食べ物のことといい、フィレンツェのクーポラ464段の階段昇降を拒否したことといい、彼女の思うようにならず、意見を言う私をだいぶ気に入らなく感じていたらしい彼女。

 

まあ、軽く無視して

 

シスターと写真を撮ったり、別れを惜しんだり、『キミヲノセテ?』と曲名を私に聞いて改めて皆の歌を賞賛してくれるシスターもいたりして、食堂を出て部屋に戻るとき、

 

A先生に呼び止められた。

 

『あんな歌を用意していたなら、知らせてくださったらよかったのに』

 

まあ、これもミッキーマウスのようにハハッと笑ってこっちも新成人一年目のガキなので何を言ったかは忘れたが嫌味を返し、唱歌では決まらなかったから食事のときに皆で話し合って決めただけだと言って部屋に帰った。ていうか、同じ場所にいたんだから、君をのせてに決まるプロセス見てなかったんかいな。

 

そして今にいたるまで、

実はただの一度も、

天空の城ラピュタ』を

見たことがない私。

 

ジブリで見たことあるのって、となりのトトロ魔女の宅急便千と千尋の神隠しぐらいかな。みんなでテンション上げて『あるこ〜あるこ〜私は〜げんきー♪』とか歌っても全員が知ってたかな。要するにほんと、何でもよかった、大事なのは、気持ちだと思う。

 

 

そして、迷子になったり、歌を歌って嫌味を言われたりしたアッシジ旅行は終わり、研修旅行の最後の地、ローマへ。

 

アッシジとローマの途中でどこか寄ったけど忘れたな。正直、どなた様…?てなる、A先生の知り合いのおじさんの家みたいなとこだった。食事を出してもらって、バイバーイ。何か、お金は払ったんだろうけどタカリに行ったみたいな感じだった。

 

さて、ローマに到着。

 

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(↑さすがの?私もここだけは上がった。サン・ピエトロ大聖堂のクーポラから見た広場。社会の教科書で見たこの景色を肉眼で見て写真撮りたくて)

 

これまたミラノのドゥオーモに続いてバリバリ工事中だったコロッセオをバスで素通りし、フォロ・ロマーノとかいうのは降りて見学したっけな。

 

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確か小学校低学年くらいの頃に映画『ローマの休日』を見たことはあったが、何となく見ていただけで全然覚えてないし、永遠の都ローマへ行き、トレヴィの泉にも、真実の口も、スペイン広場にも行かないこの宗教研修…ほんと、色々ともったいない。

 

ローマでも修道院に泊まったが、アッシジ修道院とは違い、ホテルとそう変わらないようなところ。ていうかほぼホテル。今度は迷いようもない、バチカンのサンピエトロ広場の目の前というロケーション。

 

ローマでの最初の夜は、自由時間があった。でも、近場でサンドイッチでも調達して宿泊先の修道院へ戻れというA先生。

 

サンドイッチ好き過ぎやろ

 

まあ、20人以上のお嬢様方(私以外)をあまり出歩かせたくないというのもわかるけど、

 

食べたいのよこっちは

 

ということで、これまで一切登場していないが、旅のあいだずっと私とニコイチでいてくれたCちゃん(あ、先生をAとBにしたからCにしただけであって、イニシャルではありません)

と外食に出かけることにした。

 

でも、バチカンの周りは何だか暗くて、うちの地元の近所の治安激悪い某所を思わせるような…。しかも、お店もあまりなかったり、閉まってたり。困った私は、メル友ステファニアに電話することに。

 

『ステファニア、ついにローマに来たよ。あのね、教えてほしいんだけど、今日ってイタリアは休日か何か?夕食を食べるお店を探してるんだけど、閉まってるお店が多くて』

 

『うーん、ローマは遠いからよくわからないけど、そんなお店が閉まるような休日ではないと思う』

 

『じゃあ探してみる。あ、夕食ってどんなお店を選べばいいかな?すごく高いとか、そういうのじゃなくて、私達でも食べられそうな』

 

『トラットリアって書いてあるようなところがいいんじゃないかな、ディナーでもそんなに高くないと思う。でもバチカンのそばだと、それなりにするかもしれないけど』

 

こんなやりとりをして、私はステファニアに教えられた通り、trattorìaの看板のあるお店を見つけて入ることに。真昼間で人通りの多かったフィレンツェのときと違い、少々怖い気持ちもあったが、先客が何組かいたし、(今写真を見たら)店頭にメニューと価格が書かれていたので、そこに入ることにしたのだと思う。

 

『マズかったらごめんね』

 

と言って、お店に入った。

 

このとき、Cちゃんの他に、同じ学科の子Dさんも『私も一緒に行っていい?一回くらいお店で食べたいから』と三人で行くことに。Dさんはここまで、きっと食事はA先生の言う通りにしてきたのだろう。

 

店に入り、多分私が注文したと思うんだけど、飲み物と元からついてるパン、そして三人とも

 

ローストビーフを注文

 

何でそうなったのかわからない。メニューがイタリア語だったのか、英語が通じなかったのか、全員本気で肉が食べたかったのか…何か理由があったんだろうと思う。人生でそうそうない、永遠の都ローマでのディナー、若い女三人で行けば別々のものを頼んで分け合ったりしそうだけどね。

 

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というわけで、ローストビーフ登場。

 

でかい!

 

まさかこんなデカイものが出てくると思わなかったが、ソースもローストビーフも美味しくて、三人で美味しいと言いながら食べたように思う。大食いの私は勿論だが、三人とも残さず食べた。確かDさんも、一緒に来て良かったと言ってくれたかな。

 

食事を楽しんでいたそのとき、

私達のテーブルにお花が置かれた。

 

『無視して!』

 

咄嗟に、私が二人にそう言ったと思う。

 

人で溢れかえったミラノやフィレンツェのドゥオーモ近辺で『民芸品の押し売り』みたいなのもあったし、外からフラッと店に入ってきたその花売りの男性を、

 

客も店員も完全に存在をスルー

 

というのがおかしい。

お客さんではないと考えるべきだろう。

 

これは、受け取ったが最後絶対に返せず、少額であれ金銭を要求される、よくあるやつだと思った。三人でスルーを決め込んだため、諦めたのか花売り男さんは出て行った。別に少額払って済むならいいけど、嫌な思い出は作りたくないし、少額じゃない場合もあると後で知ってビビった。

 

大満足で巨大ローストビーフを完食し、『玄関開けたら目の前バチカン』の修道院まで暗い道を歩いていたら、少し年上か同世代くらいかな、という日本人男性二人に遭遇した。

 

『日本の子だよね?どこから?』

 

『◯◯です』

 

『そうか、夜危ないから気をつけてね』

 

とか声をかけてもらった。

全く顔は覚えていないが、何か嬉しかった。

 

記憶の中で

勝手にイケメンにしてある

 

 

さて、ローマ観光はほぼバチカンだった。

 

バチカン美術館、朝のミサもサン・ピエトロ大聖堂枢機卿訪問…とバチカンにずっといた。

 

確か、枢機卿訪問が最初だったかな。

 

この枢機卿訪問というのが、当時日本人枢機卿は濱尾さんという方がおられて、どういうツテでかその方が時間を作ってくださって、バチカン市国内に入って皆で会える…という、なかなかに貴重な機会だった。ちなみに、濱尾さんのお兄さんは、今の天皇陛下が子供の頃に東宮侍従として養育に関わった濱尾実さんだ。

 

カラフルな服を着て槍みたいなのを持っているスイス衛兵もアポを知っているのか通してくれて、私達は枢機卿ローマ教皇が暮らすバチカン市国内に入り、会議室のようなところで濱尾枢機卿の話を聞いた。正直、内容は全く覚えていない。ただ、普通なら覚えているはずなのだが、その後のことがインパクト強すぎて、記憶の上書きみたいになったのだと思う。

 

私達を歓迎し、いろんなお話を聞かせてくれた濱尾枢機卿。さてそろそろお開きかなというとき、

 

『何か質問はありますか?』

 

みたいな質問タイムが突然やってきた。

 

一瞬しーん…となって、皆互いの様子を伺うような感じで、どうするどうする?みたいな雰囲気が会議室に漂った。すると、もうどの子が質問したかも忘れたが、一年生の子がこんな質問をした。

 

バチカン内のスーパーって、何を売っているんですか?』

 

1秒くらい、濱尾枢機卿がフリーズなさったように思う。確かに、今も唯一覚えているとすれば、お話の中に『バチカンの中にもスーパーマーケットがある』という話だ。その子が質問したから覚えているだけだが。

 

その子はそれを聞いていて、あの質問したんだと思う。別にその子もバチカンのスーパーに何が置いてあろうとどうでもよかっただろうけど、あの雰囲気の中、何か質問しなくちゃと思ったんじゃないかな。

 

『あ、ああ、まあ何でもありますよ。ローマ市内の普通のスーパーと同じようなものと思います』

 

という想定内過ぎるお答えで終了した。

 

私はチラリとA先生の顔を見た。貼ってつけたような笑顔の奥に『誰かまともな質問をしろ』というオーラを感じた。アッシジの歌のときあんな嫌味を言われたし、ローストビーフ食べに行ったのも気に入らなかったみたいだったが、助けてあげよっかなー

 

 

…とか思ったり思わなかったりした(笑)というのは半分以上冗談で、実際の当時の私は、こんな25人だかで会ってもらって、話聞かせてもらって、スーパーに何売ってますかだけ聞いて帰る団体じゃいけないみたいな、妙な正義感みたいなものが私の中に沸き起こった。

 

いや、スーパーの質問した子、悪くないよ。ていうか、言った本人も12年も経ったら忘れてると思うわ。でも、あの何とも言えない、重いような、まるで皆の戸惑いが空中に見えそうな、あんな空気の中発言したのはむしろえらい。私なんて、正義感がなんたらとか書いてるけど、最初に口を開いた彼女の二番煎じなんだから。

 

でも私は考えた。考えたけど…

 

枢機卿に聞きたいこと??

 

ハッと思いつき、質問することにした。

 

喋りには自信があるので、手を挙げたか何かして、質問させてもらった。会議室にいる全員の視線が私に集まる。スーパーの売り物の次は何だ?この大して学校にも来ない頭の悪そうな奴は何の質問をするんだ?神様って本当にいるんですかぁ?とか聞かないよね?……特に私をよく知る同級生にはそう思われただろうか。そのときのA先生の顔は見なかったが、『しょうもないこと言ったらわかってんだろうな』と内心思っていたに違いない。どうぞとか何か濱尾枢機卿に促され、二番煎じの私、口を開いた。

 

全文覚えていないがこんな感じ。

 

『はい、昨年のコンクラーベで新しい教皇様が選出されたときは、日本でもニュースなどで大きく取り上げられました。枢機卿様はそのコンクラーベの場にいらっしゃったと伺いましたが、そのときにお心に残ったことがありましたら、お教え頂けますか』

 

ナイスリカバー!

 

食べることしか頭にないデブ方向音痴、

12年も昔のことだし自画自賛させてほしい

 

ナイスリカバー!

 

今度は全くフリーズすることもなく、これまた内容は忘れたが、それこそニュースでは聞くことのなかった、二日目の投票前にもうこの人で決まりっぽいなみたいな雰囲気があって、選出されたら名前は何にするかみたいなことを聞かれてたとか、教皇様は猫がお好きでね、とか、コンクラーベのことや当時のローマ教皇ベネディクト16世について教えてくださった。

 

(ちなみに『枢機卿さま』と様づけで呼んでいたのはA先生だったので、私もそれに倣い、枢機卿様と呼んだ)

 

ふう…と一安心して、A先生を再びチラ見すると、こっちを向いて頷いている。あら、私が何をしてもご不満でいらしたのに、今回は満足そうでいらっしゃるわね…と思ったが正直私もワキ汗をかくくらいだった。ちょうどベネディクト16世就任直後くらいで、実際に教皇決定のニュースを見ていたからできた質問だった。その前だったら、

 

コンクラーベって何?根比べ?』

 

と冗談抜きでそんな感じだったと思う。

 

コンクラーベ投票権を持つのは枢機卿で、教皇が決まったら煙突から白い煙が上がってどうのこうのとかをたまたま知っていたから助かった。

 

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(↑この写真は、サン・ピエトロ大聖堂の真裏側。何気なく撮ったけど、濱尾枢機卿を訪問させてもらったからこそ撮れた、バチカン側からの地味にレアな写真)

 

 

その翌日は、バチカン美術館見学。

 

バチカン美術館に入るには、鬼のように長い行列に並ばなければならない。美術館内に入ったらまた並んで絵葉書を買って、バチカンの消印が押される葉書をそれぞれ自宅に送った。先日それが実家から発見されたが、激謎なテンションで書かれていて昔の自分に本気で引いた。

 

そして、見学開始。

 

このとき最初から、お昼ごはんを美術館内のカフェテリアで食べたら自由見学、自由時間。再集合は何時にサン・ピエトロ広場のオベリスクのところとA先生が言っていた。

 

ラファエロの何とかはぜひ見てくださいね』

 

みたいなことを言われていたが、コンクラーベが行われるシスティーナ礼拝堂にある有名なミケランジェロ作のフレスコ画最後の審判』を見たらもう満足した私。

 

ラファエロの何とかなんて目もくれず、ニコイチ行動をしていたCちゃんとバチカン美術館を出て、目の前のタクシー乗り場へ向かった。

 

これも記憶が曖昧で、どの時点で自由時間のことを決めたのかを忘れてしまったが、上にも書いたように

 

『ローマに来たのに、トレヴィの泉もスペイン広場も真実の口も、どれひとつ見ずに帰るとかありえない』

 

ということで、この自由時間を使ってトレヴィの泉に行くことにしたのだった。タクシー乗り場で、先頭から一台ずつ『英語はできますか?』と聞いていき、5台目くらいの運転手さんが『少しなら』と答えたので、そのタクシーに乗った。

 

乗った後か乗る前かは忘れたが、ここからトレヴィの泉までは何分くらいですか?と聞いた。

 

『15分くらいだよ』

 

よし、行こう!

 

私達二人は心踊らせつつも、内心本当なのか、詐欺られはしないか、変なところへ連れて行かれないか、ボッタクられないかとか思っていたが、あっさりと着いた。運転手さん、疑ってごめんなさい。

 

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道に降りて、なぜか走ってトレヴィの泉へ向かい、ズバァァァァンと現れたあの有名過ぎる世界的観光スポット…来ることができるとは思っていなかった、この目で見ることが叶うとは思っていなかったトレヴィの泉

 

大興奮(笑)

 

写真を撮りまくり、ローマの休日を気取ったつもりでイタリアンジェラートを買って食べたが…

 

日本へ帰ってから、

 

ジェラート食べるのスペイン広場やん』

 

と気づいた。

 

そして、『トレヴィの泉にコインを投げ入れるとローマ再訪の願いが叶う』という言い伝えがあるので、私達もコインを投げ入れた。

 

真正面を向いて。

 

行くことだけで必死で、何も調べてないし、周りは目に入ってないしで、上の『   』の文章にひとつ足りない項目があることを、私は全くわかっていなかった。

 

トレヴィの泉後ろ向きでコインを投げ入れるとローマ再訪の願いが叶う』のである。…バリバリ真正面向いて普通に投げてたわ…私達…

 

このせいか、今のところ

 

ローマ再訪は叶っていない。

 

このときはトレヴィの泉とイタリアンジェラートにテンションが上がり、スーパーを発見して飛び込んで(私は)食料品を買い込み、集合時間に間に合うようにまたタクシーに乗ってサン・ピエトロ広場に戻った。

 

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私達があんなにドキドキして、本当に15分で着くのだろうかと思っていた疑問は、今の時代はスマホでググれば秒で解決する。

 

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日本語で打ち込んだらコレ。

便利過ぎる…あかんレベルに便利。

 

私達だって、ローマで自由行動が丸一日とかあれば、ガイドブックのひとつも持って行ったけど、自由行動ほぼほぼないと分かってて、持って行くわけないもん、指くわえて見てるだけのガイドブック、持って行くほうが切ないわ。

 

帰って集合場所に走って行くと、

 

『姿を見かけなかったけど何してたの?』

 

と聞かれた。誰に聞かれたのかは忘れたし、息せききって走ってきたから、どうしたの?と思われたのかもしれない。

 

トレヴィの泉行ってた!』

 

…今だったら言わない。でも当時はまだ若い二十歳の女の子だったから許してほしい。たった今見てきたトレヴィの泉の興奮さめやらず、つい言ってしまったのだ。

 

いや、自由時間は自由時間だし、バチカン美術館やサン・ピエトロ広場から出るなとか言われてたわけでもないし、ルール違反ではない。当然A先生にもバレて不満そうにされたし、周りのみんなだって、有名観光地のひとつくらい行きたかっただろう。そこは黙っておくのが大人というものだ。

 

『ねー、会わなかったねー』

 

とか、適当に話を合わせておけばよいものを。口々に上がる、私も行きたかったーの声。いやさすがに、この研修で初めて会った一年生とかには声かけないよ…

 

研修旅行最終日の夜くらい、皆で外で食事しましょというA先生の発案で、少々ボッタクリ価格のバールっぽいとこでみんなで夕食を食べた。

 

私はいつもなら人並みはずれて食べるのだけど、部屋にスーパーで買った生ハムや、タコのオリーブオイル和えとか色々あるから少なめにしとこ!と、こんなディナーでローマを締めくくった。ボッタクられたはずだが安くついた。

 

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イタリア滞在中に気に入って何度か食べていたマチェドニアとかいうフルーツポンチみたいなのと、ヨーグルト。今、このシートに書いてある名前『MORRETO バチカン』で検索してみたら、グーグルの口コミの星1.7(笑)翻訳された言葉でわけわからない文章だったが、とにかくマズイ上にボッタクリ価格、と書いてあった。しかも、口コミの一番上に来てたのはわずか6日前に書かれたもので、『絶対に行かないでください』と書いてあった。

 

それより…

12年経ってもまだやってることに驚いた。

 

何かみんな、旅の疲れもあるし、枢機卿訪問のピンと張りつめた空気とはまた違う、ここ…ボッタクリじゃない?みたいな雰囲気。でも、お嬢様方は誰もそれを口に出さず、でも多分全員心の中で、『最後の夜なんだからむしろ自由行動にしてくれよ、皆での夕食ってアッシジでは毎晩みんなで食べてただろ、で、何この店?』と思っていただろう。

 

Cちゃんと私は、『初日のローストビーフのお店、先生に言ったほうがよかったかな?』と囁き合った。

 

モレット?とやらはA先生が選んだお店だったけど、それにしてもA先生…旅行の引率には向いてないと思う。私が勝手にディズニーランドにおけるフジモン認定しているB先生ならどうしたか知らないが、B先生が引率で行った翌々年の宗教研修では、こんなことは多分起こっていない。どこへ行っても、あの独特の語り口であれこれ教えてくださったことと思う。

 

A先生がアッシジ修道院はこんなところだよ、と教えてくれていたら私達もお礼の準備くらいしたし、最終日はローマで全員揃って夕食と言うなら、25人だかが入れるちゃんとしたお店を調べておくくらいはしてもいいと思う。それが無理なら、たとえば…泊まってるほぼホテルだよね?な修道院で、私が買ったみたいなデリのお惣菜とかを何品か買い込んでのパーティーでも、ボッタクリかつマズイ店で不満も口にできずお通夜状態でローマ最後の夜を過ごすよりは百万倍マシだ。

 

私の迷子もそう。もちろん私の自己責任ではあるが、A先生がメイン引率なら、あの平和なアッシジでも、どこかからの帰りは最後まで残るなり点呼を取るなりしていれば、『優秀な方向音痴デブ』の私が発生することもなかった。

 

(ちなみに先生と呼ばれる人はA先生の他に女性2人いたが、私達学生と同じく参加者の扱いだった)

 

『みんな私の言うこと聞いてりゃいいのよ、食事付きじゃない日はサンドイッチ買って、自由時間でも美術館見てりゃいいのよ。みんなが知らないならもう歌うのやめりゃいいのよ』

 

みたいなやり方で、20人超えの女子大生がよくついて行ったものだと思う。それは、私以外が育ちのよい良家のお嬢さん方だったからできたことで、そうじゃなくて皆が皆私みたいな集団なら、不満が爆発していたはずだ。あ、ちなみに今更だがA先生は女性、B先生は男性である。

 

 

そして、このあたりはもう記憶が曖昧すぎるので半分フィクションと思ってもらいたいが、フィウミツィーノ空港からの帰りから、旅行その後の話。

 

最後に公衆電話からステファニアに電話をして、日本に帰るよ〜

 

アリーヴェデルチ

 

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(私の渾身の舌巻きアリーヴェデルチにステファニアはめちゃ笑いながらも、英語ではなく彼女も『オー!アリーヴェデルチ!』と返してくれた)

 

とこれもイタリアが舞台のジョジョ5部に登場するブチャラティのような台詞を言って別れ、帰ってからまたお礼のメールを送った。

 

彼女からは、

 

『あなたがミラノ、フィレンツェアッシジ、ローマとたった数日のあいだに移動していくのを聞いていておもしろかった。メールだけじゃなく、声が聞けて嬉しかった。イタリアを好きになってくれた?』

 

というような返信が届いていた。

 

そして…

 

機上の人となった私はそういえばこんなの持ってきたなぁ、暇がなくて読んでないけど…と2冊の小説を取り出した。

 

天使と悪魔(上中下合本版) (角川文庫)

天使と悪魔(上中下合本版) (角川文庫)

 

 

(発売日は2014年になっているが、合体本ということで、私が持っていたのはこれではない)

 

大流行したダ・ヴィンチ・コードと同じ作者ダン・ブラウンの小説、『天使と悪魔』文庫版上下巻を飛行機の暇潰し用にと持って行ったのだ。

 

小説の舞台はイタリア、ローマ、バチカン

 

舞台は、

イタリア、

ローマ、

バチカン

 

もう泣ける。何で帰りに読む?

せめて行きに読めよ…

アホだろ…アホすぎるだろ…

 

ちなみにダ・ヴィンチ・コードも読んだが、天使と悪魔のほうが格段におもしろく、日本に帰ってB先生の研究室に持って行き、『これ面白いから読んでください』と言うと、『なかなか返せないかもしれないけどいいか』と聞かれ、私はもう読んだので差し上げます、と答えた。

 

ところがキリスト教が専門で、私達に聖書や宗教芸術の講義をしてくれていたB先生もおもしろいと思ったらしく、一気読みしたそうだ。映画化もされ、地上波放送もあったので、私は映画版も見たが、ラストが『ヘ?』みたいな終わり方だった。是非とも小説版をお勧めしたい。

 

 

 

 

激高い旅費諸々を親に出してもらって行ってはみたが、正直何だったのかよくわからないイタリア宗教研修旅行…もちろん楽しかったし一生忘れることのない良き思い出だが、

 

なんと、とあることで旅費が全額以上戻ってくることとなった。

 

私はこの研修旅行のことを書いて、とある大会に出品・出場したところ、そこで、優勝。そして、その大会実績をもとに、賞金が出る…うーん、身バレせずに書くとすると何て書けばいいんだろうか?

 

『何かを頑張った大学生にお金あげますよ』

 

という事業に応募したら…

まさかの一番上の賞に選ばれ、

 

賞金50万円を獲得!

 

で、その賞金は、

宗教研修の旅費をポンと出してくれた親に…

 

3万だけあげて、

残りは沖縄ひとり旅諸々で散財

 

という、馬鹿娘な私なのでした。

 

逆だろ

親に47万渡せよ!

 

…と今更思っても遅いが。

 

ごめんなさい。

 

この旅行の話は、12年も前、今32歳の私が20歳のときの話。日本もイタリアも、そしてこの世界のいろいろなことが、変わりまくっているだろう。

 

でも流行の発信地ミラノや花の都フィレンツェ世界遺産の街アッシジ、そして永遠の都ローマにある数々の芸術作品や建造物は、今もそのまま、変わることなくそこにあり続けていると思う。

 

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↑この思い出の公衆電話も、

今の時代なら使っていなかっただろうな。

 

まず今の私はスマホを持たないで、海外どころかすぐそこのコンビニにも行きたくない。まあ、それは小さい子供の母になり、二十歳の頃の旅行と今の日常とでは事情そのものが違うというのが大きいけど。

 

iPhoneも何も、あの頃はなかったんだから仕方がない。迷子になったら公衆電話、レストランに入るのもタクシー乗るのもビビりながら、Google翻訳もあるわけないから通じなくても必死で英語を喋り…

 

でも、私は思うのだ。

 

それも楽しさのひとつだったんじゃないかなって。だってスマホだとか今では当たり前のものが当時はないんだから、不便とも思っていなかった。もちろん便利になった今の時代の快適さを、昔を思い出して噛みしめながら旅行もしてみたいけどね。

 

ということで、何で今更?と誰もが思うであろう、12年前のイタリア旅行の話でした(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

              

 

 

 

 

 

12年前のイタリア旅の話 前編

夏の終わり、ツイッターでは物足りなくなるほど、懐かしさが込み上げてきたので、12年も前に行った学生時代の旅行のことを書いてみたいと思う。

 

私は何を間違えてか、まあまあなお嬢様方が集まっている女子大に進学してしまった。カトリックの学校で、学内のいたるところに聖母像があり、とても小さな規模の、見た目も学生数も高校ぐらいの学校だった。いや、高校よりも小さいくらい。

 

入学式からすでに『自分の来る場所じゃなかった』感はすごかったし、一目見てわかるお嬢様から、仲良くなってよく話を聞くと家めちゃめちゃ金持ちやん!な人まで色々いた。正直今でも、うちが同級生の中でいちばん貧乏だったと思っている。

 

そんな学校だったので、何だかセレブな感じの行事もあり、そのひとつが、本当の名前はボカすが『イタリア宗教研修』というものだった。1年から3年までキリスト教系の授業が必修だったのだが、この研修旅行は2単位と認定され、3年のキリスト教科目は受けなくてもよくなるというものだった。

 

(ちなみに私は、キリスト教とはまるで無縁の人生を生きていたが、小学校の図書室で読んだ聖書物語くらいから長年キリスト教には興味があり、大学のキリスト教系科目は苦にならないばかりか好きだし成績も結構良かった)

 

私には関係ないと思いつつも、イタリアかぁ、綺麗だろうなぁ、行ってみたいなぁと思った記憶がある。それを実家で話すと、父がポンと旅費を出してくれた。飛行機の燃料サーチャージもユーロも何もかも高いときだったが、よく出してくれたものだと思う。学校に納める旅費以外にも現地で必要な小遣いやらレンタルしたスーツケースやら、本当に物いりだった。

 

研修までに事前の勉強会とかがあったような気もするが忘れた。

 

そして、研修の時期は真冬。

 

まずロンドンのヒースロー空港まで行き、そこでアリタリア航空に乗り継いでミラノの空港へ向かった。研修で訪問するのは、

 

 

この四都市だった。アッシジてどこ?とか思っていたがメインとしては3泊くらい泊まったアッシジで、街がまるごと世界遺産みたいなところだった。

 

この旅行に行くとき、

引率の宗教学か何かのA先生は、

口癖のようにこう言っていた。

 

『イタリアの美味しいものや観光地は、皆さん卒業旅行かハネムーンで。今回は食事はサンドイッチなどにしてくださいね』

 

嫌ですけど?

 

この時は確か、小説ダ・ヴィンチ・コード大流行の影響があり、ミラノに行くのに『最後の晩餐』が見られないという残念な年だった。ていうか、悪いんだけど、

 

引率がA先生なのがハズレ

 

なのだった。

 

翌々年の研修旅行の引率は、キリスト教学の授業でお世話になり、とてもフレンドリーで個人的に研究室で話し込んでしまうほどだったB先生という方で、もちろんイタリアにもお詳しく…テレビで千原ジュニアか誰かが、

 

フジモンと行くディズニーランドと自分らだけで行くのディズニーランドは全くの別物』

 

と言っていたがまさにそんな感じ。

私の引きが弱かった。

 

B先生の授業は色々受けていて、どれも面白かった。『キリスト教何とか論』とか『聖書概論』とか字面を見ただけでちょっと眠そうに思えるかもしれないが、私は大好きだったし、その授業で習った内容は今も色々覚えているし、普段の物の考えに生かされていると思うときもある。

 

その中に、学内にひとつしかなかった『大学っぽい』段差になった広い教室で受ける、キリスト教関連の宗教画を見て、その背景やら何やらを聞くというB先生の講義があった。昼食後の時間に、プロジェクターに画像を映すからか部屋が暗く、興味がなければ『寝ろ』と言われているような授業だが、私は楽しんで見ていた。

 

三年生でゼミを選ぶときにBゼミがあったら希望しようと思っていたくらい。残念ながらB先生は私達が三年生のときはゼミを受け持っていなかった。

 

そんなB先生とイタリアの美術館や教会を見てまわれたら、どんなに楽しかっただろう。のちに私の母校とは規模から何から全然違う総合大学の某学部の長となられたB先生とは今でもフェイスブックで繋がっている。先生がアップする写真には、先生を慕う学生さんとの楽しそうな様子が写っていて、今もきっとあの某県方言の独特な話し方で、面白い講義やゼミをしているのだろうな。

 

私の引きが、弱かった…

 

さて。

ミラノに着いたのは夜で、その日は寝るだけ。

 

翌日、ミラノ観光。

 

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と、こんな感じでミラノの大聖堂がバリバリ工事中だったりした。

 

このときのミラノでは大後悔していることがある。日本人ガイドの人が『有名な揚げパンのお店があるので、行きたい人は案内する』とバスを降りるときに言っていた。間違いなく揚げパンと言った。

 

え?

こんなとこ来て揚げパン?

 

と思うと同時に、揚げパンといえばあの砂糖ガンガンまぶしの、昔の給食に出てきそうなアレを想像していた私、それをスルー。

 

これが、実はミラノのドゥオーモに行ったら絶対に食べてこなきゃ!と言われるレベルの行列必至の人気店ルイーニのパンツェロッティ、給食の揚げパンなどではなく、ミラノ在住者までもが激推しするという『揚げピザ』のお店だったと…

 

帰ってから知った。

 

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その頃浮かれていた私は、有名店ルイーニ(調べたところ、今も人気健在とのこと)を見事にスルーして、この有名なアーケードの中でバカ高いパスタを食べて満足していた。

 

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あとはスフォルツェスコ城とかいうこんなお城を見たらしく写真が残っているが記憶になく、2008年にアップしてあるフェイスブックのアルバムのキャプションにも『こんなお城行ったけど名前忘れた』などと書いてあった。ちなみに今、そのフェイスブックのアルバムから端末に保存し直して写真を載せている。

 

これでミラノは終わりだったかな。

パヴィアとかいう途中の街で何か見て、

次の目的地はフィレンツェ

 

フィレンツェ

 

なんかもう、私みたいなのが行くとこじゃない感満載の地名だが、行ってきた、花の都フィレンツェ

 

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この画像は拾い物だが、確かこの絵を見に行った。調べたら、サン・マルコ修道院というところにある、受胎告知という絵だと

 

今知った。

 

いや、さすがに受胎告知は知ってるし、この絵を見たら受胎告知を描いていることはわかるけど、誰が描いてどこにあるかは忘れていたというか、知らなかった。

 

フィレンツェといえばウフィツィ美術館が有名で、そこにはダ・ヴィンチと誰かが描いた受胎告知があるが、この研修旅行はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に続きウフィツィ美術館もスルーだった。

 

フィレンツェのホテルに着いたのは夕食どきだった。A先生は途中のサービスエリアで何ユーロかで買えるサンドイッチを激推ししてきたが、何とか押し切って、ホテルの隣のレストランから宅配してもらうことになった。

 

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うら若き女子大生、部屋でパーティーである。ただ、大して美味しくはなく、私が注文したこのムール貝のパスタは、

 

足のニオイがした(笑)

 

それすらも面白いのが若さというもので、ホテルのフロントにワインのコルク抜きを借りに行って、美人の友人と一緒に行ったからかフロントの男性に『キミ達部屋でパーティーかい?僕も行っていい?ハハハ冗談さ、素敵なパーティーを、レディ達』などと言われてこれまた私が洋画の吹き替えのモノマネっぽくして訳して笑い…箸が転んでも面白い二十歳の乙女達はフィレンツェの夜を楽しんだのだった。

 

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写真の順序的にこちらが後だろうけど、翌日はフィレンツェのドゥオーモへ行った。ホテルから徒歩だったのか、街並みの写真が残っている。

 

有名なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。このように真下から見た写真よりも、ミケランジェロの丘から撮られた写真のほうが有名かと思う。

 

まあ、中に入って一通り見学したのだが、ここではクーポラ(茶色のドーム部分)に階段で上がるということになっていた。今調べてきたが、階段の段数…

 

464段

 

だそうだ。ちなみに私の実家は二階にあり、階段でいうと8段を3回、計24段上がる。これが面倒でエレベーターに乗る私には無理である。おまけに世界的観光地、行列になって上っていくと聞き、

 

無理。

 

…以外の結論に達することができず、是非行きたいが私はそんな階段を往復すると明日以降歩けなくなるレベルなので、集合場所で待ってるから皆で行ってほしいとA先生に言った。すると、一年後輩の女の子二人もパスを申し出た。A先生からは、三人で行動することを条件に、フリータイムとされた。

 

当時既に誰がどこからどう見てもデブだった私は即刻何か食べることにした。後輩になる二人に何が食べたいかと聞くと、『パスタ』と言うので適当なお店に入ることにした。

 

ガイドブックも持ってない、当然ながらイタリア語はわからない、フィレンツェで自由時間があるとは思っていないので、どこが美味しいかとか有名かもわからない。そこで店選びの基準を考えた。

 

  • 客が多いこと
  • 英語が通じること
  • 価格表記がきちんとしていること

 

これは、ぼったくられたり、その他危険な目に遭わないために必要なことだったと今でも思う。ボッタクリではないにせよ観光地価格で少々は割高だろうし、味も大したことないかもしれない。でも、異国の地で、たったひとつの年齢差とはいえ後輩も連れているのだから、ちょっと離れたとこに有名店が〜とか、味は天下一品の穴場的お店が〜とかがたとえあったとしても、私は選ばなかったと思う。

 

その適当に選んだお店で、一応先輩らしく、『これは私のおごりね、パスタだけ注文するわけにいかないから』とブルスケッタと飲み物を注文した。お目当てのパスタは、私は大好物ボンゴレビアンコを、彼女達はアラビアータを食べることにした。

 

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涙出るほど美味しかった。

 

もうさすがに味までは覚えていないが、今までの人生で食べたどのボンゴレビアンコよりも美味しかったのは確かだ。あんな適当に選んだ店であんな美味しいパスタが出てくるなら、きちんと調べて有名店とかに行っていれば一体どんな最高パスタが出てきたんだろうかと思う。アラビアータも絶品だったらしく、一年生の子達からはものすごくお礼を言われた。

 

『美味しい!絶対しんどいし、

階段上がらなくてよかったー!

パスタ最高〜!』

 

などと、行ってもしないのに三人で盛り上がった。いや、464段もの階段の先にあったのはパスタなんてどうでもいいほどの絶景であったろうとは思うが、

 

景色で腹は満たされない。

 

そして、ミケランジェロの丘へとバスで出発。フィレンツェの日程を終え、フィレンツェのあるトスカーナ州から、ウンブリア州アッシジへと向かうことになった。

 

ミケランジェロの丘でお土産を買っていたら、

 

『これ、可愛いキミに』

 

と英語で言いつつ、やけにニヤニヤした若い男性店員さんが、可愛いキミどころか不細工な私におまけをくれた。

 

それを受け取ってふと見ると、ダビデ像とかみたいな裸体の彫刻の股間部分だけをキーホルダーにしたやつをくれたのだった。まあ相手としては下ネタグッズを渡された私の反応を楽しみたかったのだろうが、別に彫刻は元から裸なんだし、正直何とも思わなかったので、『サンキュー』と貰って帰ったら…

 

母が大ウケして気に入った。

 

ミケランジェロのチ…(自己規制)を略して

 

みけちん

 

という謎な名前で呼び、家の鍵をつけたそのキーホルダーを愛用していたが、犬の散歩中に紛失したとかで、今も残念がっている。

 

いや、ミケランジェロの丘でもらったけどさ、ミケランジェロのチ…ではないよね。どっちか言うとミケランジェロって彫刻を作った人よねと思ったが、母が喜んでくれたのでよかった。

 

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(↑ミケランジェロの丘から眺める、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

 

さて、研修旅行のメイン、

アッシジに到着。

 

アッシジでは、修道院に宿泊することになっていた。小さな街に3泊くらいして、あちこち見に行って、どれもこれも世界遺産だったが、今と違ってあれもこれも調べて行ったりしなかったので、あまり感想がない。

 

アッシジといえば、アメリカの大都市の名前にもなっている聖フランシスコの生きた街だ。フランシスコはイタリアの守護聖人であり、多分イタリア人は皆知っているローマ・カトリックの聖人の中ではとくに有名な人だ。『アッシジのフランシスコ』なんて聞いても、大学に入る前の私なら知らなかったが、

 

『オオカミや小鳥などの動物に説教をした』

 

とかそんな逸話が残っているそうだ。私も当時実家で飼っていた柴犬相手にしょっちゅう説教をしていたが、そういう意味の説教ではないらしい。サン・フランチェスコ大聖堂を始め、アッシジにはフランシスコに関連するとか、フランシスコが実際に過ごしたスポットがたくさんある。生まれた家もあったっけな。

 

うん、色々見に行った。

何が何だったか覚えてないだけで。

 

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デカイ切り売りピザ食べたとか、今と違ってスマホやらwi-fiがないから、ネカフェみたいなパソコン使える店に入ったとか、皆で名もない教会に入ってみたらなぜかそこのおじさん神父に参加者中最もデブスな私がやたら気に入られボディタッチされて、集合写真でもどう見ても私だけ抱きしめられながら写っててA先生も『あの神父様はちょっと…』と眉をひそめてたとか、そんな思い出ばかり蘇る。

 

宿泊先の修道院に入ったとき、本当に何気なく、何かの記念になるかな?とその修道院の名前、住所、電話番号などが書かれた紙製のカードがご自由にお取りください的に置いてあったので1枚貰うことにして、財布に入れた。これが私を救うことになるとは思いもせずに。

 

 

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(↑ピンクが可愛いサンタキアーラ聖堂)

 

アッシジ以降、朝は修道院の中でのミサに参加させてもらったり、毎朝ミサがあった。事件が起きたのは、アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)の身の回りの世話をした女性キアラ(クララ)の教会、サンタ・キアーラ聖堂でのミサに出た後だった。修道院で提供してもらう朝食の時間があるからと、皆さささーっと帰ってしまい、どういうわけか私だけそこに

 

取り残された。

 

そうよね、みんなフィレンツェで464段の階段を往復したんだもん、脚力が鍛えられたのよねきっとね。そしてこの私、

 

ガチ方向音痴。

 

え…修道院…どこだっけ?

修道院、何て名前?いや、知らんわ!

みんな知らなかったんじゃないかなぁ

 

というわけで、

何と、イタリアの小さな街で、

 

迷子になった。

 

まあ私はそんなことで取り乱すようなタイプではないので冷静ではあったが、携帯もない、地図もない、修道院の名前もわからない。名づけて『犬のおまわりさん状態』。

 

さてどうするか。

そこで登場したのが、

上に書いた修道院のカードだった。

 

そこらへんにあった公衆電話の受話器を取り、カードに書いてある番号に電話をかけた。英語で話しかけてみたが、私からの電話をとったシスターは、どうやら英語がわからないらしい。その修道院では、英語のわかるシスターのほうが少なかった。でも、私にイタリア語がわかるわけもないので、構わずそのまま話した。唯一、ジャポーネくらいは言ったかもしれない。

 

すると今度は英語のわかる人が電話口に出た。

 

『ハロー?』

 

『ハロー!私は今そちらに泊まっている、日本から来た学生です。名前は◯◯(綴りも言った)。今サンタ・キアーラ聖堂にいます。帰り道がわかりません。そこにいる日本人に代わってください。誰でも大丈夫です。多分皆朝食の部屋にいます』

 

その頃すでに、私がいないことに気づき、なぜか宿泊している部屋を見に行かれたりしていたそうだが、A先生がやっと電話口に出た。そして聖堂まで迎えに来てくれて、迷惑をかけたことを謝罪した私に、A先生は開口一番こう言った。

 

『ああ良かった。

はぐれたのがあなたでよかった』

 

暴言かよ

 

と思ってしまいそうだが、そうではない。もしこれが、『修道院のカードを持っていて電話をかけてくることができ、もしそれがなかったとしても英語がある程度できて、はぐれたサンタ・キアーラ聖堂から動かず、またフィレンツェでは後輩をつれて行動することのできた学生』の私以外だったら、どうなっていたかわからないからだ。電話番号どころか修道院の名前すらわからない中、焦って何とか帰ろうとして余計に居場所がわからなくなっていたかもしれないからだった。

 

何と優秀な方向音痴デブか

 

と12年越しで我ながら思う。

 

何か忘れたけど足に地味な怪我をしていて、皆に追いつけなかったというのもあるが、ただ私以外の子だったら、最初からはぐれないか、仮に皆から遅れても修道院の場所を覚えていて無事帰ってくると思うけど(笑)

 

そして、ド方向音痴のくせに生意気なことを書くと、『迷子になったらその場を動くな』これは鉄則である。もちろん、その場所が危険だったりしたらこの限りではないが。

 

あっ!あの人がいない!となったとき、それに気づいた人がまず思いつくのが、その前にいた場所もしくはそこまでの道中ではないだろうか。来た道を戻ってさっきの場所まで探しに行こうとなるはずだ。私のような方向音痴はもうおとなしく助けが来るのを待つしかない。道がわからないなら尚更動いてはならない。わかりもしないのに自力で帰ろうとしてはならない。余計に迷惑になるだろう。

 

ヨン様ポラリスは決して動かないから目印になると冬ソナで言っていたが、そのときは朝。ポラリスってどれ?な私には星も通用しないし、東西南北もわからない。本当に疑問なんだけど、どこにいても東西南北を認識できる人ってあれどうなってるの?私からしたら超人だ。

 

話を戻そう。

 

じゃあ、そのカードを持ってなかったらどうしたの?待ちぼうけ?最悪の最悪は、国際電話で日本に電話をかけるという方法がある。

 

確か、時差が7時間くらい(日本のほうが進んでいる)はずなので、イタリアの朝のミサの時間を考えれば日本時間は夕方前。大学に電話をかければまだ誰か人がいるはずだ。そうすれば、研修旅行の宿泊先くらいはわかるだろう。

 

緊急連絡先とかも、

そういえばなかったような気がするなぁ。

普通、あるよね?何かは(笑)連絡手段ナシ。

 

そしてこの場合、国際電話のかけ方を知っていなければならない。国際電話を海外から日本へかける方法、当時も今も、結構知らない人が多い。実際、イタリア滞在中も何人かに教えた。

 

日本の国番号81を押してから、固定電話も携帯電話も、最初の0を抜いた番号を押すと日本に電話をかけることができる。

 

日本に国際電話なんてしなくても、

もっと簡単な方法もある。

 

私の場合なら、サンタ・キアーラ聖堂に入り、ミサをやっていたくらいだから誰かアッシジの人がいるはず。その人に助けを求めるのだ。こんなことをやらかすのは私くらいかもしれないが、海外旅行での団体行動って、気をつけているつもりがアレ?と思ったら集団とはぐれていたなんて、よくあることだ。旅行記ブログとか読んでても、自分がはぐれたとか誰か連れがいなくなってとか、よく見かける。

 

言葉がわからないときに役に立つのが、写真。泊まっているところの写真があれば、それを見せると地元の人ならわかってくれる可能性が大いにある。『名前知らないけどここ見たことあるわ』とか、普通に生活しててもあるよね。私も二十歳のあの頃とは違って今は子を持つ親。子供達が海外に出かけるときは、今の時代の子だからスマホは持っているだろうから、『泊まってる場所の名前は覚えておくこと。着いたら外観の写真を撮っておくこと』はうるさがられても伝えたいと思う。

 

まあ、日本に、それも学校に電話なんてしてたら確実に大ごとになってただろうし、あのカードを何気なく取っていたのは大正解だったと思う。ていうか、ある程度待てば、誰かしらが『まだ聖堂にいるんじゃない?』と捜しに来てくれるはずだ。

 

そこまでのことがわかっていながら、

ド方向音痴でゴメンナサイ。

 

ちなみに今も、その修道院の場所も名前もわからないけど、滞在中は一人での行動はしなかったので、どうにか帰ってこられました。

 

さすがに疲れてその日の午前中の観光はパスして部屋で寝ていたが、アッシジは本当にコンパクトな歩きやすい街で、治安も良かった。なぜか、どう見てもバリバリ東洋人の私に『聖フランチェスコ大聖堂はどこですか?』とか聞いてくる外国人がいたりした。方向音痴なので当然わからないのだが、一緒にいた子の案内を通訳したり。

 

私の特性道聞かれ女がまさかイタリアでも炸裂するとは思わず笑ったが。本当にめちゃくちゃ道を聞かれる。これは今でも。外国人にも日本人にも、外にいれば誰かに道を聞かれる。優しく教えてくれそうな顔をしているのだと思いたいが、私以外にも大勢人がいても、選んだかのように私に道を尋ねる人の多いこと。本気で謎だ。

 

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(↑アッシジで泊まっていた修道院内にある聖堂での朝ミサ。朝早かったことは覚えてる。)

 

ここで、追記。

 

12年前からは想像もつかないほどのネット社会となった今、私達が泊まったあの修道院を見つけられるか、家で寝転がりながら探してみた。

 

結論から書くと、発見した。

 

まず、手がかりにしたのは自分の写真。

 

でも、部屋の窓枠の前で撮ってるとか、なぜか裏口で撮ってるとか、礼拝堂の写真、あとはほぼ食堂で食べているときの写真しかなく、あまり修道院自体を探す手がかりにならず。外観か看板か、あのカードの写真でも残っていればよかったけど、フェイスブックに載せてあった写真にはなく、ネットで探すことに。

 

 

以外の手持ち情報、なし。

 

ということで、とりあえず『アッシジ 修道院 宿泊』でググってみた。日本人の旅行ブログがヒットしたが、どれも別のところらしい。そして、画像検索のところをタップして見てみる。うーん、ないな。聖フランシスコゆかりのサンダミアーノ修道院とか観光スポットが出てきたりとか。

 

続いて英語にしてみた。でも、まだ見つからない。が、もう一度検索ワードを変えて日本語で検索したところ、イタリアの修道院に泊まるのが好きだという人のブログを見つけ、もしかしたらそこかも?と思い、その中で紹介されていたアッシジ修道院の名前をコピーして貼りつけて、再度検索。

 

画像検索にしてみると、残念ながら別の修道院だった。が!!トリップアドバイザーの関連画像が引っかかり…

 

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この画像にたどり着いた。逆に、ホテルの名前で検索してて、関係ない別のホテルが検索で引っかかったりしたらイラッとするけどね(笑)

 

この礼拝堂の写真、上に私が載せた写真に似ていないだろうか。ていうか…

 

ここだ!!間違いない!

 

トリップアドバイザーに戻り、関連画像の中からこの画像を探した。そしてリンクに飛ぶと…

 

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こんな写真を見つけた。私の手元に一番多いのは食堂の写真だ。即、今度はまた自分のフェイスブックアルバムに戻り、食堂で撮った写真を見返した。

 

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人が写っているのでトリミングしてあるが、後ろの壁にある十字架とその下の黒っぽいものが完全に一致している。

 

…とこんなプロセスであの修道院の名前がわかり、修道院のホームページにも辿り着いた。イタリア語なので何となくしかわからないが、『アクセス』っぽい単語を見つけたので開いてみると、所在地や迷子になったときの私がかけたであろう電話番号が載っていた。そして他のページも見てみると、宿泊料金や食事の時間、今は無料でwi-fiが使えることもわかった(笑)

 

ということで、名前も外観もわからない異国の修道院を特定した自分の中に

 

ネットストーカーの素質

 

などを感じたりもしたが、

 

アッシジのどこかにあった修道院、思い出深いのに名前も知らず、写真も大体食べてるとこしかない…』

 

だったのが、修道院のサイトを見つけたことで、またいろんな思い出や記憶が蘇ってきた。

 

Casa Madonna della Pace - CASA MADONNA DELLA PACE

 

↑ココ

 

(追記終わり)

 

そして、アッシジを去る前の晩、

これまた事件が起きたのだった。

 

さて、アッシジ最終日からローマ、

その後編は次に書くことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワンワン期の話。

1歳7ヶ月になった下の子が、

 

ワンワン期

 

を迎えている。

 

ワンワンとは犬の幼児語でもあるが、緑と白のあのワンワンである。NHK Eテレで平日の朝と夕方に放送されている0〜2歳児向けの番組、『いないいないばあっ!』のメインキャラクター(着ぐるみ)のこと。

 

ワンワンについて調べたことがあるのだが、ワンピースのブルック、ジョジョの奇妙な冒険スターダストクルセイダースDIOに車を運転させられて歩道を爆走するよう言われるウィルソン・フィリップス上院議員などの担当声優、チョー さんが実際に着ぐるみに入っているらしい。なかなかのダンスを披露しているチョーさんは還暦を迎えており、凄いの一言だ。ちなみに、みいつけた!のサボさんも声の本人が入っているらしい。アメフトとかバスケとかやってるし、凄い。

 

下の子はいつのまにかこのワンワンを好きになり、テレビをつけたらいつなんどきでもワンワンが出てくると思っているらしく、母親の私を始め姉や祖父母にも『わんわん』と言いながらテレビのリモコンを持ってくる。

 

犬のことも当然わんわんと言うのだが、道端でお散歩中の犬を見かけても『わんわん!』と言うので、ワンワン=チョーさんが入ってる着ぐるみ、だとは思っていないらしい。

 

上の子もそれなりにワンワン好きだった時期はあったが、ここまでワンワンワンワン言わなかったように思う。忘れてるだけかもしれないが。我が家の録画ハードディスクには、上の子が見ていた頃のいないいないばあっ!がまだあり、下の子がそれを見ている。

 

上の子のときは、ワンワンとともに歌ったり踊ったりする女の子は、ゆうなちゃんという子だった。体操はこの3月まで使われていた『わ〜お!』で、出演する赤ちゃんが着ている衣装は可愛らしいパステルカラーのものだった。

 

この衣装はとても可愛くて、上の子1歳の誕生日記念はわざわざ遠いところにあるスタジオマリオへ行って、わ〜おの旧衣装を着せた。

 

 

(※今もスタジオマリオではいないいないばあっ!の衣装を着ての撮影ができるが、2019年8月末現在、ゆきちゃん衣装とわ〜お後期の衣装となっており、はるちゃん衣装とピカピカブ〜!衣装にはまだ変更されていない。)

 

…ピカピカブ〜衣装になったら、

撮りに行ってしまいそうな自分がいる(笑)

 

私のいなばあ(めんどくさくなってついに略した)のイメージは脳内でこれ、つまりワンワンうーたんにゆうなちゃん、体操はわ〜おで衣装はパステルカラー!で固定されていて、ゆうなちゃんが卒業し、ゆきちゃんにバトンタッチ、わ〜お!はそのままだが原色系の衣装に変わったときはあまりの違和感にショックを受けたほどだった。が、ゆきちゃんに変わる頃にはもう上の子はそんなにいなばあ期ではなくなっていたけどね。

 

そしてこの春、ゆきちゃんが卒業してはるちゃんにバトンタッチ、体操はついにわ〜お!が終了し、

 

『ピカピカブ〜!』

 

に変わった。これを聞いたときは、わ〜お!がなくなるなんて無理!どんな素晴らしい体操になっても無理!とか思っていたが、

 

3日で慣れた。

 

まず、ピカピカブ〜とは良いネーミングである。なぜなら、peek-a-booとは英語でいないいないばあなので、番組タイトルとよくマッチする。そして、下の子が『ぴかぴかぶー!ぴかぴかぶー!』のところを楽しげに踊っているのを見て、わ〜お!の存在など一瞬忘れかけるほどだった。

 

今は早くピカピカブ〜が収録されたDVDとかおもちゃとか出ないかなー?と思っている(笑)

 

絵本やおもちゃは上の子のものがあり、あまり買い足していないが、今はもうワンワンさえあれば生活がどうにでもなるレベル。

 

 

中古で買ったDVDを持っているのだが、全てゆうなちゃん時代のもの。ただ、DVDを再生するのが面倒で、今はリモコン操作だけでパッとかけられる本放送の録画ばかり見せている。先日友達の家に行ったときはDVD『ひよこおんど』を持参したら、やはりリモコンを持って『わんわん』と言い出し、二回再生してもらっていた(笑)

 

 

あとは上の子が小さい頃に小児科の下にあるコンビニで買ったミニ絵本とか、音が鳴る携帯電話のおもちゃとか、色々お下がりがあるので、下の子はワンワンに囲まれて楽しそうに遊んでいる。ピアノのおもちゃはキティちゃんのがあるから買わないと思っていたが、あまりにもワンワンが好きなので、親戚のおばさんがワンワンのピアノを買ってくれた。

 

 

…これ、脚が外せるのは高ポイントだが、

音量調節ができないのが残念。

 

ちなみにアンパンマンも認識はしているが、まだハマるところまではいっていない感じ。次は多分アンパンマンだろうな。それがプリキュアになり…あっという間に幼稚園に行くのだろうと思う。

 

いないいないばあっ!には心に残っている歌がたくさんある。最初は正直あまり良さがわからなかったけど、上の子のときからあった歌がテレビから流れると、気持ちがパッと5年前くらいに戻るような感覚になる。

 

中でも、『ボンボン シャボン』という手洗いの歌を聴くと、長女の小さかった頃の気持ちを鮮明に思い出す。なぜその歌なのかは自分でもわからないが。

 

そして今年の3月、ワンワンわんだーらんど沖縄公演の放送があったので、何気なく録画ボタンを押したら…それがゆうなちゃんがわんだーらんどのお姉さんを卒業する会だったらしく、最後のゆうなちゃんの涙を見て

 

私も泣いた。

 

これでゆうなちゃんはいないいないばあっ!を完全卒業となり、今後はワンワンわんだーらんどにはゆきちゃんが出演するのだ。舞台に立つゆうなちゃんはすっかりもう本当のお姉さんになっていて、身長はほぼ大人みたいで、着ぐるみワンワンとの身長差もかなり縮まっていた。

 

そりゃそうだよね、ゆうなちゃん出演時にワンワン期だった上の子が、もう来年小学生になるんだから。そして今こんなに激ハマりしている下の子も、あっという間に見なくなり、私一人だけが取り残されてしまいそうな気がする(笑)

 

下の子が今、ワンワンと言いながらリモコンを持ってくる姿を、再生が終わったり消したりすると腹を立てて泣いている姿を、テレビにかじりついてワンワンを見ている姿を、ピカピカブ〜!で縦揺れして踊っている姿を…たくさん記録しておきたいなと思う。